●ティベリウスの後継者・ゲルマニクスの不可解な死
おそらくアウグストゥスの指示によるものだと思いますが、ティベリウスが亡くなった後、ゲルマニクスが継ぐようにという指令の下にティベリウスが皇帝になり、その後継者としてゲルマニクスが指名されるのです。しかし、ティベリウスが皇帝になった紀元14年から5年後、ゲルマニクスは亡くなってしまいます。
非常に不可解な形で亡くなってしまったため、国民的な人気を博していたゲルマニクスですから、その死への疑いが皇帝であるティベリウスにかかりました。ティベリウスにとって、絶大な人気があったゲルマニクスはある意味で邪魔な存在だったのです。そのため、ゲルマニクスが暗殺されたのではないか、毒殺されたのではないかという疑いが強く国民の間で広まりました。今の歴史学では、おそらくそうではないだろうといわれていますが、当時はそういううわさがずっと駆け巡っていたのです。
●抹殺されていくゲルマニクスの息子たち
そうすると、ティベリウスにすれば面白くありません。実際にゲルマニクスの子どもたちは、何人もおりますけれども特に男の子はやがて処刑されたりして殺されてしまいます。これはある意味濡れ衣だと思いますが、ティベリウスに対する陰謀を起こしているということで殺されてしまうことになるのです。
しかし、こうした処刑や暗殺にティベリウス自身が直接手を下したということはおそらくないのではないかと思います。というのは、その頃、ティベリウスはすでにカプリ島に隠棲していたからです。むしろローマにいて自分たちの後継者を擁立しようとしていた者たちが、ゲルマニクス系の人々のことを非常に邪魔でしょうがないと考えてのことでしょう。ゲルマニクスには男の子が5人もいました。昔ですから若くして亡くなってしまうのはありふれたことですが、少なくともゲルマニクスが亡くなった時点では、男の子は3人ほど残っており、そのうち上の2人がやがて暗殺、あるいは処刑されてしまうことになるのです。
●民衆の期待を背にゲルマニクスの息子ガイウスが3代皇帝へ
その中で一番幼かったガイウスだけが、まだ幼いからということでそのまま残されました。最初ほんの幼児だったガイウスですが、やがて少年となると、その少年時代にも母親あるいは兄もいろいろな疑いをかけられて処刑されてしまいます。ですから、母親や兄のそうした扱いを見ると、自分だっていつそうしたことが降り掛かってくるか分かりません。ティベリウスが実際に裏で操っていたかどうかは別にして、ガイウスは最終的にカプリ島に行ってティベリウスに仕えるのです。そういう形で仕えている中、紀元後の37年、ティベリウスは亡くなります。
その後継者としてゲルマニクスの末の息子であるこのガイウスが、後に「カリグラ」と呼ばれる皇帝になるのです。カリグラとは男子が履く小さな靴、特に軍隊で履くところの靴のことで、彼はそういうあだ名で呼ばれていました。幼い頃にゲルマニクスが連れて歩いたりして他の兵士たちにもかわいがられ、そうしたあだ名を付けられたので、カリグラという名前になったということです。ということで、彼はアウグストゥスとして、ティベリウスの後の3代目の皇帝になったのです。
ゲルマニクスは、多くの人々から為政者として非常に期待され、あらゆる面で欠点のない男でした。タキトゥスの『年代記』の中でも彼は何とあのアレクサンダー(大王)と比較されて論じられているのです。つまり、アレクサンダーに匹敵する男だったということです。そういう民衆の期待もあったので、その息子のカリグラが3代目の皇帝になったのです。
●ローマの悪帝のはしりのようなカリグラのふるまい
こうして、カリグラは24歳頃に皇帝になりました。ティベリウスは、本人があまり好きではなかったということもありますが、いわゆるローマのパンとサーカスといわれるように、民衆に対して穀物を供与したり、剣闘士興行や戦車競走といったことを行ったりして皆に大盤振る舞いするというようなことに積極的ではなかったため、民衆に人気がありませんでした。一方、カリグラは逆に積極的に民衆にそうした機会を与えたため、最初は人気があったのです。
しかし、就任してから半年後ぐらいに、彼は大病を患います。これをきっかけに、それまでとは打って変わって残忍な性格になってしまったといわれています。これは、ある人にいわせれば、一種の精神疾患を患ったのではないかということです。ただ、カリグラという人はそういった精神疾患を患う前も、そしてその後も、一貫して自分の親兄弟に関しては、非常に愛情を持っていたといわれており、身内をひいきすることにおいてはどんな努力も惜しまないとみなされていました。といっても、すでにその当時は父親も母...