●「ローマ帝国」はいつ始まったのか
これまでのシリーズでは、世界帝国としてそれなりの形を整えてくるローマの興隆期までのお話をいたしました。今日は、それが帝国としての形を整えていく前の段階の話をしたいと思います。
ローマ帝国というと、皆さんがすぐに思い浮かべるのは「皇帝」でしょう。帝国の「帝」は「みかど」を意味する字ですから、皇帝が存在してこその帝国という考え方があります。その考えに従って厳密に考えていくならば、ローマ帝国が始まった時期ははっきりしています。
カエサルが暗殺された後、十数年の内乱の時期がやってきます。カエサルから後継者に任命されたオクタヴィアヌスは、当時わずか10代後半の若者でした。そのオクタヴィアヌスが30歳になるかならないかの時にローマ初の皇帝になります。厳密にいえば、彼は紀元前27年に「アウグストゥス」という称号を受けたのです。
アウグストゥスはラテン語で「尊厳なる者」という意味です。ローマ市民としてこの称号を贈られるのは大変な名誉であり、いわばローマの第一人者に認められたということです。形式的には、これをもって「ローマ帝国(皇帝)の始まり」と考えられています。
●実質的なローマ帝国成立は紀元前146年
「皇帝」はその時点で誕生しましたが、私自身は彼が「アウグストゥス」の称号を得るより120年ほど前、紀元前146年に実質的なローマ帝国が形成されたと考えています。
紀元前146年は、地中海の西の方で第3回ポエニ戦争が終結し、ローマがカルタゴを徹底的に破った年です。これにより、ローマは地中海世界の西側で非常に大きな力を振るうことになります。
また、東の方では、アレキサンダー大王以来マケドニアというギリシア人勢力が続いていました。ギリシア人の力を統合したこの勢力をたたきつぶし、その中の勢力圏として最後まで生き延びたコリントスというギリシアの都市をもローマは破壊します。これが、やはり紀元前146年のことです。
つまり、西におけるカルタゴと東におけるギリシア人のコリントスの両者を勢力下においたのです。このように決定的に、地中海世界全体の覇者としてローマが登場を見せたのが、ちょうど紀元前146年なのです。
●地中海の覇者ローマに格差を生んだ「勝者ゆえの悲劇」
歴史は得てしてそういう形を取るのでしょうが、ローマが地中海の勝者として立ち上がってきたその時から、ローマの中では逆に内乱が起こってきます。
まず、非常に理想に燃えるグラックス兄弟がいました。彼らは第2回ポエニ戦争でハンニバルを打ち破った大スキピオの孫で、母親が大スキピオの娘コルネリアという恵まれた血筋です。スキピオ家もグラックス家も進取の気性に富み、ローマを新しく改革していこうという意識の高い家系でしたが、当時のローマは勝者になったがゆえの苦境に立たされます。
勝者ゆえの苦境とは、どういうことか。勝者になると、非常にたくさんの土地が手に入ると同時に、戦争捕虜としてたくさんの人々をローマの中に奴隷として編入することができます。つまり、土地と奴隷労働力が結び付く形となったので、その中から「ラティフンディア(奴隷制と大土地所有制)」が拡大していきました。
ローマに限らず、それまでの地中海世界の都市国家(ポリス)は、基本的に平時には農作業をし、戦時には戦争に駆り出される自由農民によって成り立つのが原則でした。ところが、たくさん土地を得、奴隷労働力が入ってきたことで、その原則が崩れ、自由農民の活躍する場が大きく縮小されていきます。このような勝者であるがゆえの悲劇が起こったために、「持てる者と持たざる者」の差が広がってしまったのです。
21世紀の現代においても、経済成長を遂げていくことがかえって社会の中の格差を広げるという現象を生じていますが、これと同様のことが、覇権を広げつつあった段階のローマにも起こっていたわけです。
●「閥族派」と「民衆派」の対立を経て「第1回三頭政治」へ
その後、持てる者の代表である貴族を中心とする「閥族派(オプティマティス)」と、持たざる者の勢力である「民衆派(ポプラレス)」との間に争いが起こってきます。民衆派といっても、民衆間に支持基盤を置いているだけで、それを率いるリーダーたちは貴族です。はっきりいってしまえば貴族同士の争いということになりますが、それを支持する層として民衆派と閥族派の対立が、およそ100年間続くことになります。
最初に起こったのは、マリウスとスッラの対立です。マリウスはどちらかというと民衆派のリーダー、スッラは閥族派のリーダーという形で拮抗していました。ところが、年齢も上だったマリウスが早く亡くなってしまったために、スッラがその後、天下を握ります。この時、スッラは民衆派が幅を利かせ...