●「われ一人腹を切て、万民を助くべし」と言った家康の諦念
前回は、理想を現実に変える志と粘り強さ、持続性を胸に置いて活動してきた徳川家康の姿に触れました。家康の忍耐力と決断力については、有名な大久保彦左衛門(忠教)が『三河物語』の中で、興味深い言葉を紹介していますが、その言葉に尽きるかもしれません。それは「われ一人腹を切て、万民を助くべし」というものです。
豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いで家康に敗北した後、それでも軍事力や動員力といった実力においては自分の方が上回っていると承知していたため、なんとか家康を上洛させ、臣従させたいと願いました。これに家康の家臣たちは皆、反対します。「これは陰謀・奸計であるから、行けば殺される。よせ」というのです。そのため、秀吉はいろいろ努力をします。まず、布石として旭姫という妹を家康の正室に送りますが、それでも駄目なものだから、今度は大政所である母親を人質同然に、駿河へ送り込みます。秀吉の母親思いは知られていましたから、こうして家康を篭絡しようとしたわけです。
結果として、家康は覚悟して上方へ上ります。その時、殺されたらどうすると危ぶむ臣下たちに対して、「自分一人が腹を切れば済むことではないか。それによって万民を救うことができ、天下国家が安泰になれば、それもいいではないか」ということを言ったのです。つまり、人々のためには自己犠牲もいとわないという意味でした。
これは、よくできすぎている話ですから、ただちに美談=史実とは限らないという前提のもと、慎重な扱いを込めて私は言うわけですが、家康にある種の達観、悟りの境地があったことは間違いありません。これは、洋の東西を問わず、現在も過去も、最高指導者にはある意味で必要な資質です。
●「郷に入れば…」だけではない「片葉の芦」の教訓
家康は、決して和歌や能には耽りませんでした。しかし、歌をつくったり読んだりすること自体への関心や教養は備えていました。『源氏物語』や『伊勢物語』のような王朝文学を好んで読むというわけではなく、『吾妻鏡』などさまざまな歴史書を統治の学として読み、政治家として必要な教養を身に付けることに関心があったのです。
また、大坂の陣の際のエピソードも知られています。大坂に陣を敷いた時、近くの村に珍しい片葉の芦(葉が片方しかない芦)があると聞き、その芦...