●シャネルはなぜこれほどまでに成功したのか
ここで、シャネルというファッションブランドを考えてみようと思います。シャネルはもともと、ココ・シャネルという女性のデザイナーによって立ち上げられたブランドです。
シャネルは19世紀的な女性の服を20世紀的な形にしたといわれています。19世紀的な女性の服というと、例えば腕や袖をぎゅっと絞ったり、腰の周りを針金などでぎゅっと締め付けたりと、大変窮屈な服装でした。ココ・シャネルは、シャネルスーツに代表されるように、女性が働きやすい、もう少しゆったりした服を考えたのです。したがって、ココ・シャネルは、19世紀の窮屈な世界から女性を解放したと普通、理解されています。
実際、シャネルは子どもの絵本にも取り上げられるように、女性の偉人の一人として見なされています。シャネルというブランドの創始者としてのみならず、過去50年間で最も大きな影響を与えたファッションデザイナーとも評価されています。ジュエリーやシャネルNo.5などのフレグランスも、非常に有名です。
しかし、シャネルはなぜこれほどまでに成功したのでしょうか。彼女はかなり長生きでした。1883年に生まれて、1971年に87歳で亡くなっています。彼女の生涯は、非常に波乱に富んだものでした。
●シャネルは2度ほど、死んだも同然だった時期があった
私の知る限り、シャネルというブランドは2度ほど、低調な時期がありました。1度目は、第2次世界大戦が終わった後の時期です。第2次世界大戦中、フランスのパリはドイツのアドルフ・ヒトラーによって占領され、蹂躙されていました。その時期、シャネルはヒトラー政権の軍部関係者の愛人だったといわれています。後年、実証的な暴露本が出ました。つまり、シャネルはナチスに協力していたとされているのです。
そのため、終戦後、シャネルはスイスに逃がれます。戦争中にナチスに協力した人は、戦後、迫害されましたので、当然のことでした。女性は坊主にされて、街の人から石を投げられたという有名な写真があります。シャネルのような有名人が敵方のナチスの軍部の愛人だったというのは、本当に不名誉極まりない出来事だったのです。
ですから彼女は、スイスに一時、亡命するように逃れていったのです。この時期は当然、パリにあるシャネルのメゾンは閉めてしまいましたし、シャネルブランドなどは見る影もありません。
ところが戦後、8年ほどたってから、ココ・シャネルは再びパリに戻ってきます。フランスでは当時、ココ・シャネルは今さら何をするのか、もう過去の人だという世評でした。確かに戦前は一時有名だったとはいえ、シャネルのような古い人が出てきてどうするのだというわけです。しかも、ナチスとつるんでいたとなれば、なおさら評判は悪くなります。
しかし当時、シャネルのファッションを評価した市場があったのです。それはアメリカでした。戦後、アメリカの兵隊はパリに進駐していましたが、彼らがアメリカへと帰国する際、パリの香水を恋人や奥さんのために持ち帰ったのです。香水は小さいですから、手土産にしやすかったのでしょう。そうしたこともあって、シャネルの香水ブランドはアメリカの市場で、高い評価を受けたのです。したがって、アメリカの市場のおかげでシャネルのブランドは復活を遂げることになりました。
2度目の低調期は、シャネルが1971年に亡くなった十数年間です。シャネルの死後、シャネルブランドは、パリではほとんど忘れられていました。しかし、ドイツから有名なデザイナーを呼び、80年代にもう一度、シャネルブランドは再評価されることになります。このように、シャネルというブランドは少なくとも歴史の中で2度ほど、死んでいたも同然だった時期があったのです。
●セルフブランディングが得意だったシャネル
さて、それではシャネルはどのようにブランドとして発展していったのでしょうか。ココ・シャネルは戦前、1920年代に非常に華やかな時期を過ごしました。ジャン・コクトーやパブロ・ピカソ、イーゴリ・ストラヴィンスキーといった有名人と交際し、ファッション界だけではなく、芸術の世界のセレブと仲良くなったのです。つまり、パリの社交界の華だった時期がありました。シャネルは、こうしたセルフブランディングが非常に得意だったのです。彼女は自らの名前をデザイナーとして際だたせることによって、ファッションブランドを確立していきました。
彼女が自分について語ったことの多くは、どれも本当かどうかよく分かりません。彼女が語ったことを伝記にした人がいるのですが、その中には明らかに本当ではないことが含まれていますし、調べればすぐにうそだと分かるはずのことを、彼女自身が語っています。
例えば、彼女の父は小さい頃にどこかに消えた後、...