●国滅びても民族あり、1900年の流浪と苦闘
こんにちは、島田晴雄です。前回(参照:イスラエルの今)は、イスラエルについて勉強しようということで、なぜその必要があるのかを話しました。特に、われわれ日本と対極の立場にあるようなイスラエルを学ぶことは、世界の多様性を学ぶことになるので、とても重要だとお伝えしました。
今回は、近代のイスラエルがどのように誕生してきたのかに触れます。そこに至るには大変な苦闘の歴史があります。その歴史を理解すると、「そうか。だからイスラエルの人々はあそこまで自国の問題に真剣に、必死に取り組むのだ」ということが分かると思います。
イスラエルは、紀元70年頃にローマ帝国によって滅ぼされ、国としては消えてしまいます。しかし、ユダヤ人は生きています。彼らは世界中のどこにも自分の国を持つことができないまま、1900年間にわたって世界中に離散して流浪します。言葉に尽くせない苦しい歴史を、何十世代にもわたって繰り返してきた人たちなのです。
特に日本人から見ていぶかしいのは、1900年も世界に四散して流浪しながら、なにゆえに祖国を忘れずにこだわってこれたのかという点です。これ自体が日本とは相当違います。もしも日本人が世界中に離散して何百年か過ごすことになれば、いろいろな国に同化し、入り混じって消えてしまうのではないかと思います。ユダヤ人はその点、突出して民族へのこだわりの強い人々なのでしょうね。
●「シオニズム」誕生に火を付けた、ドレフュス事件
19世紀に入ると、世界に散らばったユダヤ人の中に、やはり自分たちの国が欲しいという運動が強まってきました。これを「シオニズム」と言います。「シオンの丘」はパレスチナのことですから、シオニズムは故国を希求する運動を意味します。
シオニズムの象徴的な活動をした人にテオドール・ヘルツルというオーストリアの裕福な家庭に育ったジャーナリストがいます。若い頃の彼は、各国に居住するユダヤ人はそれぞれの国に同化したほうがよいのではないかという意見の持ち主でした。しかし、勉強を重ね、世の中の動きを見ていくうちに、それは不可能だと思うに至ったと言われます。
衝撃の大きかったのは、フランスで1894年に起きた「ドレフュス事件」でした。ユダヤ系の陸軍大尉だったアルフレッド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕され、島流しにされた冤罪事件です。フランス革命後のフランスは人権宣言を唱え、ユダヤ人解放が最も進んだ国とされていたのですが、その中でさえ隠然たるユダヤ人への不条理な差別が行われている。その背後にある民族的な憎悪を嫌というほど見せつけられた感性の鋭いヘルツルは、ユダヤ人問題の解決は、ユダヤ人が独自の国家をつくる以外にないと決意します。そういう考え方を持つ人々を「シオニスト」と呼びます。
●シオニスト会議の背景に吹き荒れていたポグロムの嵐
やがて彼は世界の同胞に呼びかけて、1897年にスイスのバーゼルで最初の「シオニスト会議」を開き、「自分の国を持とう」という運動を始めます。
その後、イギリスのジョゼフ・チェンバレン植民地大臣に接触して「イスラエル祖国奪還のために大英帝国の力を貸してくれ」と申し入れ、「ウガンダ(当時のイギリス領東アフリカ)はどうか」と提示されます。
この計画はシオニスト会議の議題に上げられ、賛否両論の的となりました。議論の末、実際に現地を検分するための視察団が派遣されて、「これはユダヤ人の国ではない」との報告がもたらされました。
19世紀初頭から、ヨーロッパでは「ポグロム」というユダヤ人殺りくが発生していました。この頃になると特にロシアやポーランドで大規模に発展していたため、ユダヤ人を救済しないと大変ことになるという焦りから、ウガンダ入植もやむを得ないと考えた人も多かったことが背景にあります。
ポグロムを描いた世界的に有名なミュージカルに、「屋根の上のバイオリン弾き」があります。テヴィエ一家は迫害され、家財道具を荷車に積んでトボトボと逃げていくのですが、まさにそういう時代だったのですね。大激論の末、やはりウガンダはユダヤの国ではないということになりますが、この運動をリードしたヘルツルは結論をみる前に亡くなりました。しかし、その後もシオニスト運動は各方面に強い影響を持っていきます。
●第一次世界大戦とイギリスの「三枚舌外交」
1914年には第一次世界大戦が勃発。イギリス・フランス・ロシアが組んで「三国協商」をつくり、ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国・イタリアの「三国同盟」にオスマン帝国とブルガリアがつく。この両グループの対決が第一次大戦の基本的な構図です。
イギリスは、この戦争を有利に進めるためにシオニストを利用しようと...