●「仲間らしくしなさい」
前回の仮説ですが、どうやら確かにもともとある二面性の一面のみを強調したのが、これまでの考えの主なものであったということが分かります。ではこれは、全く毛色の異なるおきて2つを単に、接着剤で継ぎはぎしたものなのか、それともさらに上位のおきてがあって、統合できるのかということになります。
このあたりの話は1つのステートメントにまとめることができます。それは仲間らしくしなさい、という命令です。
●個別のおきてと共通のおきてという道徳の二面性
この命令は二面性を持っています。1つは個別のおきてで、これは仲間らしくしなさいと言われたとき、仲間と同じように考え行動しなさいということです。この内容は仲間の単位と共に変化します。
的確な例はあいさつです。握手をするのか、頭を下げるのか、これは仲間の範囲とともに変化します。日本だったら頭を下げる、アメリカだったら握手をする。でもこれは握手をする方が正しいとか、頭を下げる方が間違っているとか、そういうことでは全くなく、相対的なものにすぎません。異なる地理・気候で展開する社会ごとに異なる、ある枠組みに基づく思考や行動の標準化であるということが分かります。これは守ると社会のまとまりが良くなりますが、多様性を阻害する可能性があるおきてでもあります。
もう一方で、仲間らしくしなさいというとき、仲間に対して危害を加えないという命令を意味する場合があります。これは仲間の範囲が変わっても内容は不変です。日本にいようがアメリカにいようが、仲間に対して危害を加えるな、この命令は絶対的に守らなくてはいけません。なぜか。これを守らないと社会の形成や維持ができないからです。社会の中では協力・分業するわけですから、そのときに仲間に対して危害を加えていいと言ってしまうと、社会が全く成り立ちません。社会のための最小限のおきてであるということが分かります。
先の回で仲間の話をしたのですが、今回もう1つ重要なことはこのデュアリティーの認識です。二重性があるわけです。われわれの道徳の基本原理は仲間らしくしなさい、ですが、その中に個別のおきてと共通のおきてという二重性があって、このデュアリティーを認識することが大事です。われわれは普段この2つを区別せず、ごっちゃにして仲間らしさを判定しています。
例えばずっと外国の文化に触れないで、外国にも行ったことのないような人がどうなるかというと、2つのおきてがごっちゃになってしまうのです。あるいは、自分と同じようなあいさつをしない人は、共通のおきてを守らないのと同じぐらいいけない、まともな人間ではない、というように思ってしまうわけです。ここがすごく大事で、デュアリティーをきっちり認識することが大きなことだと思います。
●仲間の範囲と資格
別の捉え方で見ると、これまでの思想や世の中の思想をよく分類することができます。個別のおきては仲間と同じように考え行動せよ、共通のおきては仲間に危害を加えるな、ということですが、個別の部分は仲間の範囲を規定しています。この範囲が狭過ぎるのは、先ほど言ったいわゆる右翼的思想ということになります。
それから、仲間に危害を加えるなという最低限のおきて、このことをきちんと守らなくてはいけません。これは仲間の資格に当たります。この資格要件が低過ぎるのは、いわゆる左翼的思想です。例えば、生物学的人間であれば誰でも平等なので死刑は絶対反対、といったことです。私は死刑に賛成でも反対でもありませんが、誰でも平等だからといった理由で死刑に反対するのはおかしいと思います。
このように、仲間の範囲と仲間の資格を計測することができれば、その人の道徳の状態を計測することができます。
●人間と動物の道徳は適用範囲が異なっている
道徳が動物にもあるのかということですが、ここは軽くご説明しておきます。重要な、バーチャルな出会いの発見というところがあるので、ここに注目してください。
動物にも道徳的行動があるということで、よくテレビ番組に動物の子育てが出てきて、思いやりがあると言われます。でもよく考えると、このときの道徳を適用する範囲、要するに協力・分業する範囲は、血縁に限定されていて、血縁外では思いやりとは程遠い残酷さが待っています。この動物たちは、自分の子ども以外に対しては大体、殺してしまったり無視したりしています。このように、動物の道徳の適用範囲は血縁に限定されています。でも人間の道徳のおよぶ範囲には、遺...