●バーチャルな仲間が可能になった理由は言葉にある
なぜバーチャルな仲間意識が可能になったかですが、それは言葉、人間の言葉に大きく依存していると思います。
ヒトの言葉の特殊性を粗視化して2つにまとめると、まず三人称があります。今、ここにいない第三者の状態を伝達します。これは空間を超えることができます。次に時制、現在以外の時間を扱えます。これは時間を超えることができます。要するに時空を超えて、今ここにいない第三者に関する情報を伝達処理できることになります。これこそがまさにバーチャルな出会いを可能にするわけです。
例えば信徒にとっての教祖を考えてみてください。教祖はもう何千年も前に亡くなった全くの赤の他人です。でも信徒はその人の体験や、教えなどを口伝えであったり、本を読んだりして追体験します。追体験することでバーチャルに出会っているような状態になります。このようなことは、時空を超える情報伝達手段である言葉がないとできないわけで、これができるのはヒトの言葉だけです。部分的にできるかもしれない動物の言葉もありますが、これが完全にできるのはヒトの言葉だけなので、ここが一番大きな人間と他の動物の違いではないかと思います。
●言葉とは一種の社会的な取り決めであり、絶対的なものではない
これはなぜ、可能になったかですが、ヒトの言葉は、境界線のない現実にある一定の線を引いて概念をつくり、そのときの気持ちとは関係ないある音を対応させるという操作を行っています。その境界や音の範囲はあいまいで、可変的で相対的で場所や時間により変化する社会的な取り決めです。同じ言語の中でも時代によっても違うし、地方によっても違うようなものです。
例として「私」という言葉を考えてみてください。これはデカルトなどが哲学の出発点としたものですが、例えば腸内細菌を考えたとき、2000年前にはもともとばい菌があることすら知られていなかったので、腸内細菌のことなど誰も考えていませんでした。レーウェンフックが顕微鏡を発明して、細菌がいると分かったため、細菌がいてどうも人間に悪さをしているらしいと思っていたわけです。しかし今や、腸内細菌はわれわれが生まれてから死ぬまで、われわれの免疫や代謝を助けているということが分かってくると、多くの研究者たちは、これは私の一部だと思い始めているわけです。
ですから、「私」などという言葉においても、時間や場所により変化しているのです。言葉とは、一種の社会的な取り決めであって、絶対的なものではないということです。
●言葉とは社会性そのもの
こんなあいまいさと幅を残しつつも社会的取り決めをすることで、基本的概念は共有されて、時空を超え、情報が伝達されるということになります。つまり、ヒトの言葉というのは社会性そのものなのです。われわれはこうやってしゃべっているときに、いちいち単語一個一個の意味とか範囲、音などを考えてやっているわけではありません。これはある程度、社会的な取り決めがあることを飲み込んでやっているのです。ですから、言葉をしゃべれば絶対に社会性があるということになります。
したがって、個人を社会から切り離した議論、デカルト以降の西洋哲学の観念論的な議論というのは、やはり本質的に無理があると思います。人間の言葉の本質をあまりきちんと取り入れていないと思います。もちろんこれに気が付いて、現在ではフェルディナン・ド・ソシュールであるとかクロード・レヴィ=ストロースなどが、そういうことを部分的には言っているのですが、ここは非常に大事なことだと思います。
●未来に向けていかに寛容な道徳を作るか
未来に向けてどう生きるべきかですが、バーチャルな仲間の特徴というのは、例えば混血児を使って考えるとよく分かります。彼らにとって愛国心という概念は明らかにバーチャルです。彼らの両親が属する集団が争っているシチュエーションの思考実験をすると、君は味方の血を半分持っているから仲間だと言われたり、君は味方の血を半分しか持ってないから敵だと言われたり、君は敵の血を半分持っているから敵だなどと言われたりします。
これは比率の問題ではなく、4分の1でも8分の1でも16分の1でも、何でもいいのです。ワンドロップ・ルールで、家系にアフリカ系の人間が1人でもいれば、どんなに見た目が白人でも黒人になるというようなこともあるわけで、結局このように、個人をどちらかのカテゴリーに押し込めるのは無理です。現実にその人がハーフだったら、それは血が0.5:0.5であり、1でもゼロでもないわけです。これは血でなくても、文化でも同じです。
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