●渋沢栄一に「古典」を教えた大人物
田口 渋沢栄一という人を調べていくと、「この人なかりせば、渋沢栄一もなし」という人がいます。尾高藍香(おだか・らんこう)という縁戚の人です。渋沢は後年、この人の妹チヨを妻にしたので、さらに縁は深くなります。
渋沢の場合、6歳までは父親が四書五経を教えますが、6歳以降は尾高藍香の家に行って古典を指導してもらいました。古典の指導ばかりではなく、一家・一族ですから、いろいろな冠婚葬祭を一緒に仕切ってもいく。この尾高藍香自身がどういう人かというと、富岡製糸場を作った人です。
―― それは、大人物ですね。
田口 さらに、初代の場長として経営者を務めました。日本のシルク産業は、明治の初年、日本の別名になるほどのもので、あの時代にシルクが量産できなければ、その後の日本の成功もありえませんでした。
―― なるほど。確かに、外貨を稼ぐのはシルクしかなかったです。
田口 あれしかなかった。その象徴が富岡製糸場です。もしも富岡製糸場が倒れたり、うまくいなかったら、日本の近代産業もうまくいかなかったと思うのですが、それを成し遂げたのが、尾高藍香です。
●尾高藍香の主張と出自を伝える「藍の香り」
田口 江戸末期の封建時代に尾高藍香が主張したのは、封建制を排して郡県制にすることでした。また、当時のインフレ状況を憂え、このままでは日本という国は滅びる、インフレ対策を徹底することが重要だ、とも言っています。
渋沢栄一は大蔵省へ入って近代金融や財政を仕立てていきますが、その際にバイブル扱いされていた西洋の書物を読むと、自分が尾高藍香から聞いていたようなことばかりが記されている。それで、渋沢は改めて尾高を尊敬します。また、渋沢にしても、並の人ではありません。小さい頃から国家財政や金融の勉強をしていたということです。
●藍を扱う家に育ったことでビジネスマインドが培われた
田口 さらに、「尾高藍香」というこの名をよく見ると、藍の香りと書く。なぜ渋沢が、資本主義をあれだけ見事に監督できたのかというと、実は藍を扱っている家に生まれたからなのです。
―― なるほど。藍を扱う家に生まれたのが渋沢の強みでしたか。
田口 藍というのは、調べてみると驚くべき商品です。プロフェッショナルでなければとても扱えない商品...