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なぜ渋沢栄一は日本資本主義の父になれたのか

渋沢栄一の凄さ(2)渋沢栄一と尾高藍香

情報・テキスト
渋沢栄一
日本資本主義の黎明を支えた渋沢栄一だが、なぜ、渋沢にはその力があったのか。そのことを考えるときに忘れてはいけないのが、渋沢の生家が藍に携わる農家だったことである。藍づくりは極めて複雑・専門的なビジネスで、かつ投機的な側面も備えている。また、渋沢に古典を教えた大人物もいた。渋沢はなぜ日本資本主義の父になれたのか、その謎に迫る。(全2話中第2話)
※インタビュアー:神藏孝之(10MTVオピニオン論説主幹)
時間:15:16
収録日:2019/06/14
追加日:2019/09/18
≪全文≫

●渋沢栄一に「古典」を教えた大人物


田口 渋沢栄一という人を調べていくと、「この人なかりせば、渋沢栄一もなし」という人がいます。尾高藍香(おだか・らんこう)という縁戚の人です。渋沢は後年、この人の妹チヨを妻にしたので、さらに縁は深くなります。

 渋沢の場合、6歳までは父親が四書五経を教えますが、6歳以降は尾高藍香の家に行って古典を指導してもらいました。古典の指導ばかりではなく、一家・一族ですから、いろいろな冠婚葬祭を一緒に仕切ってもいく。この尾高藍香自身がどういう人かというと、富岡製糸場を作った人です。

―― それは、大人物ですね。

田口 さらに、初代の場長として経営者を務めました。日本のシルク産業は、明治の初年、日本の別名になるほどのもので、あの時代にシルクが量産できなければ、その後の日本の成功もありえませんでした。

―― なるほど。確かに、外貨を稼ぐのはシルクしかなかったです。

田口 あれしかなかった。その象徴が富岡製糸場です。もしも富岡製糸場が倒れたり、うまくいなかったら、日本の近代産業もうまくいかなかったと思うのですが、それを成し遂げたのが、尾高藍香です。


●尾高藍香の主張と出自を伝える「藍の香り」


田口 江戸末期の封建時代に尾高藍香が主張したのは、封建制を排して郡県制にすることでした。また、当時のインフレ状況を憂え、このままでは日本という国は滅びる、インフレ対策を徹底することが重要だ、とも言っています。

 渋沢栄一は大蔵省へ入って近代金融や財政を仕立てていきますが、その際にバイブル扱いされていた西洋の書物を読むと、自分が尾高藍香から聞いていたようなことばかりが記されている。それで、渋沢は改めて尾高を尊敬します。また、渋沢にしても、並の人ではありません。小さい頃から国家財政や金融の勉強をしていたということです。


●藍を扱う家に育ったことでビジネスマインドが培われた


田口 さらに、「尾高藍香」というこの名をよく見ると、藍の香りと書く。なぜ渋沢が、資本主義をあれだけ見事に監督できたのかというと、実は藍を扱っている家に生まれたからなのです。

―― なるほど。藍を扱う家に生まれたのが渋沢の強みでしたか。

田口 藍というのは、調べてみると驚くべき商品です。プロフェッショナルでなければとても扱えない商品ですし、相当な財力がないと、それで発展することはできません。さらに、藍は投機商品でもあります。だから、幼少の頃から徹底的にインベストメントを学ばなければいけないのです。

―― 商品相場もあれば、マーケットもあるとはすごいですね。

田口 藍はまず、肥沃な土地でないとできません。したがって、暴れ川の中洲がいいわけです。渋沢栄一の雅号は青淵ですが、「青淵とは、どこですか。そもそも何のことですか」といったら、青い淵。青い淵とは利根川のことですから、利根川流域すべてが藍の生産地だったということです。そのような肥沃な土地でなければいけなかった。

 さらに、藍にはうんと肥料をやらなければいけません。「肥料を食う」作物なわけですが、そのやり方がまた難しい。いつ、どういうふうに肥料をやるか。また、藍玉のもとである「すくも」は、藍を発酵させてつくらないといけない。これらの過程が実にプロ性に富んでいて、難しい。さらに水打ちの作業については「水師」という専門職がいたくらい、高度な技術が必要でした。つまり、非常に技術革新性のある工程です。渋沢は幼少期から、インベストメントばかりかイノベーションもここで訓練されていた。その指導者が尾高藍香だったということです。

 さて、肥料がなければいけないと言いましたが、「銚子は何で栄えた町ですか」というと、漁港として名高いですが、もう一つ干鰯(ほしか)があります。鰯くらい、いい肥料はなかったのです。江戸時代の銚子の町は、どこにいっても干鰯がありました。ただし、干鰯をつくっても、当時は鉄道も何もない。どうやって運ぶか。船でしょう。利根川筋をずっと伝い、両側にまいていけばいいのです。

 利根川流域にはそういう地の利があって、渋沢が生まれた深谷血洗島というところも、藍の本場に数えられていました。いいときにいい藍をたくさん買う。買うときには一つひとつの葉っぱを見て、これは劣るだの何だのという交渉、今でいうビジネスに13、4歳から関わっていたのです。

―― 渋沢は幼い頃からビジネスプロセスが分かるような場所にいたわけですね。

田口 さらに感覚が磨かれます。ここはお金で投資して買い取ったほうがいいという感覚です。世の中の動きを見ていると、今年は藍の出来がよくない。ところが、ここにはこんな素晴らしい藍がある。買い占めてしまったほうがいい、という感覚が一つ。また、そ...
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