●大久保彦左衛門の『三河物語』に登場する伊賀忍者
―― 前回、伊賀の人が江戸初期までスカウトされていくことについての話をお聞きしましたけど、実際、どのような戦いを伊賀者、甲賀者がしていたかということについて、どんな史料が残っているんでしょうか。
高尾 彼らが戦況を左右する重要な人たちであったということは間違いないんですが、下級の武士団なので、必ず史料にしっかりと残っているというわけではありません。ただ、そんななか、例えば大久保彦左衛門という人がいます。彼は3代将軍家光のご意見番として、講談ではよくたらいに乗って江戸城に登城したという話として出てくる人ですね。
彼は実在の人物で、『三河物語』という本を書いています。その本には、徳川家の成立から徳川家康が天下を取った後まで、いろいろと書いてあります。意図としては、三河者の功績をちゃんと書きとめておこうということで、戦争で頑張った人たちに三河者たちがいたんだということを忘れないように書かれたものなんですね。
太平の世の中になると、算盤勘定、すなわち事務がよくできる武士が出世していきますが、そうした者ではなく、実は徳川幕府成立には三河出身で戦争の得意な者がいて、かなりの功績を残したということがいろいろと書いてあるんです。そのなかに、三河国に出稼ぎに来ている伊賀者(伊賀衆)のことが書かれています。
●戦における伊賀者の役割-突撃をかけて戦況打開
―― それは何年ぐらいの話ですか。
高尾 徳川家康のことを竹千代と書いてありますので、おそらく家康がまだ幼かった頃ですね。
―― そのぐらいの時代からもうすでに伊賀者が入っていたということですね。
高尾 そうですね。家康のいとこに当たる人が刈谷城の城主だったんです。現在、愛知県の刈谷市に刈谷城というお城がありますが、そこが家康のいとこに当たる水野家のお城だったんです。つまり、その水野という人が城主でした。本には、今川方が忍びを雇って、伊賀者(伊賀衆)を雇って、刈谷城に攻略をかけるという、そういう場面が出てきます。そこでは80人から90人ほどの伊賀者が攻め込んだと書かれています。そして、城主の首を切り落としてしまうんですね。
その伊賀者が入るだけでそのまま落城するかというと、そうではありません。まず伊賀者が入城し内部を混乱に陥れた後、城主の首を切り落とし、内側から門を開けて正規の兵を受け入れる。そうして初めて城が落ちるんです。
ところが、『三河物語』のそのくだりでは、正規の兵を受け入れるのに少し手間取っているんですね。その間に水野家の家臣たちが気づいて、城に入った伊賀者たちを逆に袋の鼠にしてしまう。それで全員が殺されてしまうということが書かれています。
そういうくだりを見ると、伊賀者は、まずお城に突撃をかけて戦況を打開するという目的があるということは分かります。彼らの目的は、お城を占領することではなく、戦況を打開することで、それに失敗すると皆殺しになってしまうということです。そういう位置づけだったのです。
だから、料理の道具に例えると缶詰の缶切りの刃先で、それに当たるようなものです。まず穴を開けるということで、それは非常に重要だけれども、危険性が高いのです。そういう役割は身分の低い忍び衆(忍者)にやらせるということですね。ほかにアメリカの海兵隊もそうですが、そのようなたとえもできるかもしれません。
戦争というのは差別の構造によって成り立っており、死んでいい人間と死んではいけない人間がいるということです。太平洋戦争も同じかもしれないけれども、彼らはそういう役割を任されていて、しかも特殊技術を持っていた人たちです。
●陽忍と陰忍
高尾 それから、藤堂藩の史料には、大坂冬の陣の史料があります。藤堂高虎も大坂方の情報を探るために、忍びを放っています。そこで、情報を仕入れているんです。詳しいことは書いていないのですが、そういうことが書いてあります。また、戦争が始まると何をさせていたかというと、火付け(放火)をさせていたということが、『高山公実録』という藤堂高虎の伝記のなかに書かれていたりもします。
ということで、先ほどから例として挙げたのは戦場における忍者の働きで、その史料には彼らの実際の様子が書かれているんです。
―― そして日頃はまさに諜報活動で、「軒猿(のきざる)」といいましたでしょうか。
高尾 それは話を聞いてくるだけですね。
―― そうした情報だけ聞くような者もいると。また、有事というか、いざ戦になった場合には潜入工作をやったり、真っ先に突入していったり、そういう突破力としての役割も担っていたということですね。
高尾 忍者には「陽忍(ようにん)・陰忍(いんにん)」という者があります。陽忍は姿を...