●50歳までやらなければならない仕事とやりたいことの準備を同時進行
―― 若いときの学びというと、現代人ですとどうしても、学びのイメージというのは大学までの受験の勉強とか、大学時代にちょっとやった勉強などで、それで終わってしまってというところも多いと思います。つまり、その学生のときの気分と、50歳ぐらいになってからもう1回学び直しをしたいというときの気分では、必然的に変わってくるでしょう。ですから、自分が今まで培ってきたものがあるなか、何を学び、何を与えられるかということが大事になってくるというところですね。
童門 だから若いときはいろいろやりたいことがありますよね。選択肢がたくさんね。だけど伊能忠敬さんの場合には、初めから天文学と測量ということで、その1点に絞っていたということです。ただ、この判断はなかなか難しいところがありますけれども。
―― そうですね。伊能忠敬の場合は夢を持ち続けた例だと思いますけれども、もし自分がそうじゃなかったとしたらどうか。例えば、これから40歳、50歳になるという人が何をしていこうかというときに、1つのヒントとしては、若い頃に何をしたかったのか、それを掘り起こしていくというのはあるわけですね。
童門 おっしゃる通りです。
―― 伊能忠敬というとどうも、当時、単に高齢になってから日本全国歩いた人と思いがちなんですが、その背景にそれまでの生き方としていろいろあるというところですね。
童門 だから、若い時の立志で志を立てたけれども、現実面でいうと伊能家の再建というのがその頃は1つの義務としてありました。それと同時にやりたいことを行うための準備もすすめていました。つまり、Aの仕事(伊能家の再建)が完成したらBのやりたいこと(天文学と測量)を第二の人生の目標としてやりにいったということで、その接点というか、そのあいだに間隔は置かなかったんです。ということは、50歳になる前から、隠居前からやりたいことの準備も同時進行させていたということでしょう。
―― 間隔を置かないというのは、天文のための準備を間を置かずに同時並行で進めていったということですね。
童門 そうです。だから50歳頃になった時は、今日までは伊能家のために、明日からは自分のためにと決めて、間を置かずにパッと動いたということです。そのあたりはクールで、やはり数理的な資質を持っていたんだなと思いますね。私などはとてもできないことだなと。
―― いや、私もまったくできません。でもまさに先生がおっしゃったように、区切りをつけるのではなく、やりたいことも同時並行でやっていくということで、そこの知恵というものがポイントなんですね。
●伊能忠敬は実は「第一の人生」をずっと歩み続けていた
童門 だから、そこはオーバーラップしているわけです。忠敬さんにいわせると、「第二の人生なんかじゃないよ。第一の人生を、本当にやりたいことを、ただずっと歩いているだけだ」と。
ただ、そういうことをやれる資格、あるいはやれる資金、やれる時間、そういうものを得るためには、普通は第一の人生といわれているような50歳までの生き方を、実務をもって進めていく。つまり、そのための支度をしてくれるところに対して、あるいはその支度をすることを嫌がらずに行い、そしてそれに自然に移行できるように、いろいろな配慮とか実績とか、こういうものを積まなければだめなんだよということでしょう。
―― そうですね。そういう準備をきちんとする。そして、踏み出すときには何が与えられるかということを考えて、自分の道をつくっていくというところですね。
童門 そうです。
●伊能忠敬同様、50歳を過ぎてから転身した童門冬二氏
―― ちょうど伊能忠敬の魅力的な人生については、童門先生が『伊能忠敬:日本を測量した男』(河出書房新社)というご本でお書きになっていますので、ぜひこちらもお読みいただければと思います。
ところで、皆さんご存じのように、童門先生は東京都庁でずっとお勤めになっておられました。美濃部知事の時には知事にお仕えになりました。そして51歳で作家に転身されるということで、ここもある意味では、年齢的にいうと、童門先生ご自身も伊能忠敬とかぶるところがございますね。
童門 ええ、ちょうど同じぐらいの年齢の頃ですね。ただ私はなりたくて、今のような状況になったわけじゃないんです。51で辞めても4、5年くらいは、「お待ちしていました」なんていう出版社はどこもいませんでした。
31歳か32歳のときに芥川賞の候補になったのですが、落選しました。あの時、一旦筆を絶ったんです。それで公務員の仕事に集中しようということで、専念しました。あの頃はまじめな役人だったんです。
ただ、その時にやった仕事が広報関係で、それを私は公務員30...
(童門冬二著、河出書房新社)