●マハトマ・ガンジーが率いたインド独立運動
以上のようなインドの現状は、インドの歴史的な背景によってかなりの程度規定されています。少し複雑ですがインドの歴史を紐解いてみますので、引き続きお聴きいただきたいと思います。
1947年8月15日、日本の終戦記念日と同じ日に、ジャワハルラール・ネルーはインドの独立を宣言しました。それから2年かけて、インド憲法を制定しました。国名はインドですが、ヒンディー語ではバーラトといいます。国家体制としてはソ連をモデルとした社会主義を取りました。それから国家の立場は世俗主義で、宗教と政治の間に距離を置きました。
独立まで、インドは非常に苦労しました。皆さんもよくご存じのマハトマ・ガンジーは、中流の商人階級の家に生まれました。イギリスで弁護士になろうと志し、それから南アフリカに移り弁護士の仕事に就きました。そこでインド人を支援していたのですが、期するところがあってインドに帰ってきて、このインドを変えなければならないと心に誓いました。ただし、暴力は使わず、無抵抗主義・非協力主義によって、農民運動や労働運動を指導し、大きな人気を得ました。
グジャラート州の州都であるアフマダバードに修道場を建てると、多くの人々がそこに通うようになりました。ネルー家の親子もガンジーに心服して右腕となりました。その後息子のジャワハルラール・ネルーが首相となります。
そしてガンジーは1930年に、78人の弟子を連れてこの地から200キロも離れた海岸に向けて有名な「塩の行進」を行いました。これは世界中で報道されました。
また、ガンジーは写真を撮るときに、糸車を横に置いています。糸車で木綿の生地を作って、それをまとうのです。これには一説によると、次のような話があります。ビハール州という非常に貧しい州には昔、織物の職人が多くいたのです。その頃、イギリスは産業革命の最中で、急速に布の値段が下がっていきました。ところが、どれだけ安くしても、低賃金のビハール州の職人に勝つことができませんでした。そこである時、ビハール州の職人を並べて、イギリス商人が全員の手首を切り落としたそうなのです。こうした歴史を思って、彼は必ず白の粗末な服を着ていたのです。モディ首相は比較的派手な衣服を着ますが、他のインドの政治家でも同じように質素な衣服を意識的に身にまとう人はいます。
●イギリスの思惑とネルー苦渋の決断
第二次世界大戦が始まると、イギリスはビルマを支配するために、不足する戦力をインド兵の調達で補おうとします。しかし、国民会議派の人たちは簡単には承諾しませんでした。そこでクリップス使節団を送って、戦争が終わればインドに自治権を付与するという構想を示したのです。しかし、統合を希望しない地域には強制はしないという条件を付けました。このクリップス使節団の条件は有名なのですが、すでにこの時からインドを分割しようという下心がイギリスにあったようです。インド全体が統一されるとあまりに強大な国になるので、イギリスは分割することによって一定の指導力を残しておきたかったのだと思います。
この提案に不服だった国民会議派は、「Quit India」という大規模なイギリス人追放の大衆運動を組織しました。イギリス軍はこれを残忍に制圧して、国民会議派の幹部は3年間投獄されました。その中にネルーもいたのです。
ネルーは感心なことに、まだ10歳前後だった娘のインディラ宛に、3年間に渡って数日置きに手紙を書き続けました。その手紙には、ネルーの理解する世界史の一コマが書かれていました。それがその後、数百ページの立派な本としてペンギンブックスから出版されました。『Glimpses of World History』という本です。今でも世界史の本としては、世界で最も名著といわれています。凄まじく頭の良い民族なのです。
イギリスは、インドを一つの巨大な国家にすることは避けたいと思ったのでしょう。その時、イスラム教徒がパキスタン構想を打ち出しました。彼らを率いるジンナーをイギリスは重宝して、ロンドンに連れていき英国紳士の服を着せて歓待しました。ネルーが白い木綿の服を着ていたのと対照的です。ある時、シムラーという夏の都に指導者たちを集めて会議を開き、イギリスは暫定政府の形成許可を出しました。その頃、イギリスはインドを統治しきれなくなっていたのです。その際、ジンナーは、暫定政府の中に入るムスリムのメンバーは全員ムスリム連盟が指名すると主張しました。他の人が入っていると、投票で不利になる可能性があるので、その条件は譲りませんでした。
イギリスは、次善の策としてインドを三層構造にするという提案をしました。東と西にイスラム教徒が多いので、それを一つの州としてまとめる。真ん中は一番大きい地域ですが、これを...