●ネルー以来の非同盟主義と社会主義計画経済の方針を転換したインド
インドはネルー首相以降の非同盟主義と社会主義計画経済という2つの原則から、大きく舵を切り始めました。
非同盟主義に関しては、中国の周恩来と協力体制を築いていたのですが、中国のチベット侵攻によるダライ・ラマ14世の亡命を経て、関係が悪化しました。その後、カシミール地方への中国軍の侵攻によって、国境をめぐる軍事紛争となり、インド軍はここで大敗北しました。この前線は現在でも中国が実効支配しています。ネルー首相とインド国民は、毛沢東に期待していましたが、大変な裏切りに遭ったということで、今日でも中国はインドの仮想敵国です。バジパイ元首相の原爆実験は、パキスタンよりもむしろ中国の存在を意識していたといわれています。
また、ネルーの死後も外交・軍事両面で長くソ連を重視していましたが、ソ連が崩壊して冷戦が終結すると、徐々にアメリカとの連携に軸足を移していきました。アメリカ側もインド洋での影響力を持ちたかったために、共同軍事演習なども行うようになりました。ついには、2006年にブッシュ政権下で、アメリカはインドと原子力協定に合意し、インドを核兵器保有国として認めました。これまでのような制裁対象としてではなく、経済・軍事両面でパートナーとして扱うようになり、インドの対米傾斜が強化されて今日に至っているのです。その結果、安倍政権もインドと接近できるようになったという経緯があります。
次に、社会主義的計画経済から、経済解放と自由経済を志向するようになりました。そのきっかけとなったのは、1991年にインドを襲った経済危機です。インドの保有外貨が底をつき、債務不履行寸前にまで至りました。湾岸戦争の結果、石油価格が跳ね上がり、石油資源を持たないインド経済を直撃したのです。さらに、中東に出稼ぎに出ているインド人からの本国への送金も減ってしまったために、国内は大混乱に陥りました。
当時財務大臣を務めており、後に首相を務めたマンモハン・シンは、これまでの共産主義的な許認可制度を撤廃し、民間の参入を大幅拡大するという自由化政策を取るなど、大胆な改革を断行しました。このように、社会主義だった国が市場原理を取るようになったので、海外企業がインドに殺到しました。その結果、インドの財閥が衰退するかと思われましたが、昔から存在...