●ネルー首相から娘のインディラ・ガンジーへのシフト
ネルー首相は政教分離と社会主義の方針を明確に打ち出しました。国民会議派の得票は45パーセントでしたが、他にたくさんの党があるのでこの結果は圧倒的多数でした。この状況がその後数十年継続します。ネルー首相は、新国家構想の中核に計画経済を掲げ、そのために国家計画委員会を作りました。そして、1927年というかなり早い段階でソ連を訪問しています。この体制こそが人々を幸せにする体制だと思い、社会主義国家の建設を目指しました。ソ連と同様に重工業と軍備を強化して、強い国になることを目指しました。独立後、ソ連にならって、国家計画委員会を60年以上も維持していました。先ほど指摘したように、モディ首相はそれを最初から無視してしまったのです。
ネルー首相は非同盟主義を取りました。第二次大戦後、冷戦構造が世界を支配した文脈では、非同盟主義はソ連に傾いた態度で、アメリカの掲げるパクス・アメリカーナと距離を置くという意味です。ネルー首相は世界的にも有名な政治家になったので、同様に大きな影響力を持っていた毛沢東やスカルノなどの人々とともに、米ソの調停役を果たすという理想を持っていました。ところが、その理想は1959年の中国政府によるチベット侵略によって崩れ去りました。その結果、チベットの宗教指導者、ダライ・ラマ14世が、数千人の難民と共にインドに亡命しました。インド政府は修道場を今でも提供しています。
そして、社会主義計画経済があまりうまく機能しなかったために多くの批判を受けたネルー首相は、失意の中で1964年5月に亡くなりました。
その後、シャーストリー氏が後を継ぎましたが、この人も短命ですぐ亡くなりました。結局、ネルーの一人娘であったインディラに白羽の矢が立ったのです。
インディラは、早くに妻を亡くした父親のネルーのために、官邸で身の回りの世話をしていました。シャーストリー内閣でも大臣を務めていました。その頃、夫のフィーローズ・ガンジーを亡くしました。彼との間には、2人の子どもがいました。ガンジー王朝といいますが、マハトマ・ガンジーとはゆかりはありません。インディラの夫がガンジーという苗字だったというだけです。
●15年にわたって続いたインディラ政権の功罪
着任早々、大旱魃に伴う食糧不足という重大な危機が起こりました。インディラ・ガンジーは、ネルー首相の重工業への重点投資政策を直ちに中止し、農業増産にシフトしました。これは「緑の革命」と呼ばれました。大改革を目論みましたが、富農をうまくコントロールできませんでした。しかし、なぜか多くの貧民の支持を受けているというイメージを保ち、政治家生命を保ってきました。
インディラは首相にふさわしくないと国民会議派の有力者は考えました。そこでほとんど実権を持たない大統領職への就任を打診しましたが、インディラはそれを拒否しました。その結果、党から除名されてしまったのですが、彼女は粘り腰で国民会議派内インディラ党を形成しました。一般の国民へのアピールとなる政策を次々と打ち出し、タミル系のドラヴィダ進歩同盟および共産党と連合して、非常に左翼的な政党を作りました。この試みは成功を収めて、その後15年にわたるインディラ時代が始まるわけです。
インディラの政治スタイルは、国民会議派の組織や議会を通じて行動するのではなくて、直接民衆に訴えかけて選挙で勝つというものでした。1971年の選挙では、その戦略が見事に成功しました。社会主義路線を強化して、同年(71年)にはソ連と同盟条約を結んで、アメリカとの縁を切ります。
この期間の外交上の最大の勝利は、パキスタンとの戦争における勝利です。パキスタンは10万人の捕虜を残して、降伏しました。そしてインドは東と西に角が出ているような形をしていますが、東にはベンガル人が多いのです。ここでパキスタンは戦争に負けました。この地域は東パキスタンと呼ばれていましたが、敗戦によって威信が地に落ち、バングラデシュという新しい国になりました。今のパキスタンは西パキスタンと呼ばれていました。もともと1つのインドだったものが、3つの国に分かれてしまったのです。
パキスタンへの勝利によって国民の間で人気が沸騰して、インディラ支配体制は絶対的になりました。インディラは好きなように政治運営できるようになりました。ところが、経済は惨憺たるものでした。食糧不足は深刻化して、貧困層は拡大しました。さらに74年の世界エネルギー危機が事態を悪化させました。さらに、インディラが選挙違反をしたという最高裁の決定によって窮地に立たされましたが、辞任せずに、これを逆手に取って非常事態宣言を出しました。その結果、市民の権利は停止され、報道管制が敷かれました。反政府政党は非...