●戦後から日本に対して友好的だったインド
それでは最後に、日本とインドの関係についてお話しします。
日本とインドの正式な国交の開始は、1952年です。この時に、日本に対して非常に寛大な内容を持つ日印平和条約が結ばれたのです。また、独立したばかりの戦勝国であったにもかかわらず、インドはサンフランシスコ講和会議で主権を回復した日本へのアメリカ軍の駐留に反対して、会議を欠席しています。さらに、日本への請求権を放棄するという、非常に友好的な姿勢を示しました。大戦中の主要な戦争犯罪人を裁いた東京裁判では、インド人のパール判事が日本人被告の無罪を主張しました。他にも、1949年にネルー首相は友好の証しとして、娘の名を取ったインディラというゾウを上野動物園に送るなど、非常に好意的な姿勢を取っていました。
1958年に日本はインドに対してODAの第一号となる円借款を供与しましたが、その前年である1957年には岸信介首相が初めてインドを訪問しました。しかし、冷戦時代に日本は日米同盟を基軸とする自由主義経済の方針を採っていたのに対して、インドは非同盟外交の方針を貫き、閉鎖的な経済体制を取ったために、日本との接点がなくなってしまいました。
●1991年の経済危機を皮切りに活発化していく日印関係
日本とインドが最接近する契機となったのは、先ほども言及した1991年の経済危機です。この危機の最中、外貨準備が底をついてデフォルトしそうになりましたが、この時、日本はアジア開発銀行から協調融資をして、インドは危機をしのいだのです。
その後、1998年に政権に就いたBJP(Bharatiya Janata Party、インド人民党)のバジパイ(アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー)首相は、経済開放をさらに進める政策を取りましたが、核実験を強行しパキスタンも対抗して核実験を行いました。日本はこれに抗議して、即座にインド大使を帰国させるなどして、しばらく関係は中断し、その間に冷却してしまいました。
2000年の森喜朗首相によるインド訪問は、新たな雪解けとなりました。クリントン大統領がインドを訪問したので、これを好機と見た森首相もインドを訪問したのです。そこでバジパイ首相と会談して、インドは核実験を凍結する代わりに日本は経済制裁措置を緩和するという合意を結びました。そして、日印関係を「21世紀におけるグローバル・パートナーシップ」と位置付けました。森首相も、その後にインドを訪ねた小泉首相も、同時にパキスタンとバングラデシュを訪問しました。当時の日本は、インドとパキスタンのバランスを非常に重視していました。
●インドとの緊密な関係を築く安倍政権
ところが、安倍首相はその方針を大きく転換して、パキスタンは訪問せず、インドを重視するようになりました。インドはBRICsの一角として存在感を高めていました。安倍首相は台頭する中国のカウンターバランスとして、インドを重視しようと思ったのでしょう。このグローバル・パートナーシップに、戦略的という言葉を付けて言い直したために、インドでは大変歓迎されました。
安倍首相とモディ首相の個人的な関係は、非常に強いものです。2014年にモディ氏が首相に就任して、日印関係は以前よりはるかに緊密になりました。モディ首相は安倍首相と「日本インド特別戦略的グローバル・パートナーシップのための東京宣言」という共同宣言を打ち出しました。
日本はインフラ整備のためのインドへのさまざまな協力を始めました。その中でも象徴的なのは、首都のデリー市にデリーメトロという地下鉄を引く計画です。これは東京の地下鉄にも迫る、全長300キロメートルに近い規模なのです。この計画の評判が良くなったのは、計画通りに工事が進み、予定の期日に完成したためです。インドではこうしたインフラ工事が計画通りに進んで、予定の期日に完成することはまずなかったのです。この例を見て、他の都市も同様にメトロをつくりたいといい出し、ある種の日本ブームが起こっています。
実はモディ首相は、新幹線方式の高速鉄道を引く計画を以前から日本に打診していて、2023年の開業を目指しています。これはそうとう大規模な投資です。シリーズ内で言及した通り、「Make in India」は切れ目なく工業地帯が続く日本列島の建設を果たした太平洋メガロ都市構想というものをモデルにしています。この計画の象徴的なインフラとして、高速鉄道を引きたいという悲願を持っているようです。ムンバイとグジャラート州アフマダバード間の約500キロメートルを結ぶ予定で、東海道新幹線と同じぐらいの距離になります。所要時間は、現在の約8時間から2時間程度に短縮される予定です。
●インドは日本に友好的なのに、日本企業のインド進出は遅れている
日本とインドの間には、さまざまな意味で相互補...