●あの頃は、誰もが「グローバル二等兵」だった
楠木 昔にさかのぼってイメージしますと、昭和30年代というのは、日本のありとあらゆる企業がユニクロ状態になっていて、その1つの例が私の父だと思うのです。現在81歳で、軸受、ベアリング、いわゆる機械部品をやっていた。日本の自動車とかエレクトロニクスよりも前に、グローバルに出ていった業界です。当時の日本の内需は限定的だったので、日本で造るわけですけれども、設備投資して工場を回すと、海外に売りに出るのはマストでした。
―― なるほど。
楠木 とにかくなんとかして売ってこなければいけないとなって、父は、南アフリカのヨハネスブルグの支社長になったのです。当時、20代後半、まだ26歳くらいでした。
―― 26歳で支社長というのはすごいですね。
楠木 支社長といっても(そこに社員は)1人しかいませんから。子どもの頃、私はそこで育ったのですが、例えば、カワサキ(川崎重工業)のバイクを売っている人とか、商社の人もいましたし、いろいろな人たちが、小さなコミュニティ、日本人会か何かをつくって、わいわいやっていました。これを私は「グローバル二等兵」と呼んでいます。おそらく、みんな20代くらいだったのではないでしょうか。
―― グローバル二等兵、面白いですね。
楠木 当時のグローバル突撃兵。南アフリカだけではなく、世界中にそういう人たちが出ていって、「エコノミックアニマル」と言われながら、やっていたわけですよね。あのモチベーションは何なのか。当時、父はどんな気分だったのかなと思うわけです。さきほどお伝えしたように、内需が限定的なので、とにかく新しいフロンティア、ビジネスを拡張していかなくてはいけないという経済的な動機があったと思うのですが、「戦争には負けたけれども経済では」という、理屈を超えたモチベーションもあったのではないでしょうか。
―― それは分かりやすいモチベーションですよね。
楠木 ええ。おそらく、「そんなこと言うんじゃない。戦争に負けたんだから」と親に言われていたはずなのです。
当時のメディアを見ると、何かのリーズニング、理由や根拠を言うときに、「戦争に負けたのだからしようがねえじゃないか」と、ありとあらゆることに対して言っていたらしいのです。彼らは、少年時代からそうやって言われて育った世代なので、「じゃあ、今度は、経済では」というのは絶対にあったと思うのです。
そして、3番目に、一番大きく、かつ、無意味とも思えるようなモチベーションが、日本にいるよりいいだろうということですね。
―― なるほど。
楠木 父は、普通に日本で学校を出て、機械部品の会社に就職しているので、英語が話せるわけがない。それから、ほとんど新入社員ですから、国際的な法務や会計についても一切知らないわけです。
―― そうですよね。
楠木 ええ。それで、とにかく何だか分からないけど、当時、飛行機を4回くらい乗り継いで南アフリカに行って、「ここで何かお前、売ってこい」と言われて、なぜ行ったのか。「南アフリカに行ったら、みんな一戸建ての家にプールが付いているぞ」と言われて、日本で小さなアパートに住んで、しみったれた生活をしているよりもいいというのはあったのだと思います。
それから、当時の通貨は、1ランドが400円くらいだったのではと思います。
―― ものすごく強い。
楠木 南アフリカは天然資源の裏付けがあったので、当時はものすごく為替が強かったのです。だから、給料を日本円に換算すると、とんでもない金額になるので、毎日、Tボーンステーキが食べられるぞとなった。そういうレベルだったので、かなり強いモチベーションだったと思うのです。
―― 毎日、Tボーンステーキというのは、ものすごく魅力ですね。
楠木 当時はそうだったと思いますね。だから、「全く訳が分からないけど、ちょっと行ってみるかな」ということで、日本人会の人はみんな、ステーキを食べに南アフリカに来ていたのではないでしょうか。
―― 分かりやすいですね。
楠木 それは、あると思います。
●日本が参考にすべき国は先に成熟しきった国
楠木 今、日本がこういう状況になって、「経済が成熟している」「閉塞感がある」「右肩下がりだ」と言っても、こんなに安全で、治安も良くて、ご飯もおいしく、人に優しく、例えばちょっと上司に怒られただけで「セクハラなのでなんとかしてください」といえば、なんとかなってしまいそうな、こんな穏やかで優しい環境にいて、「南アフリカに行きますか」と言われたら、「いや、ちょっと勘弁してください」と言うのが、人情として必然ですよね。
―― よく分かる世界ですね。
楠木 結局、日本人が変わったというよりは、状況が変わったということですね。前の世代が、安心安...