●「時々、生徒になる練習があるといい」
柳川 もう1つ、今の話を聞いて思うのは、結局、われわれは年齢を重ねるにつれて、上へ上がり続けていくというイメージを抱きがちだということです。若いときよりも今のほうが偉くなっていたり、だんだんと偉くなっていきたいし、これからも偉くなっていくものだと思ってしまっている。
―― 道を極める、どんどん上がっていくというイメージですよね。
柳川 でも、社会全体が20年くらい上へ上がったら、また一からやり直しというサイクルになっていれば、またゼロスタートのところに来ても、1回目、2回目は極めたけれど、3回目はゼロスタートですからと、本人も周りも思える。そういうような仕組みだと、本当はもう少し楽なのかなという感じはしますね。
為末 時々、生徒になる練習があるといいですね。生徒として教えてもらう側にうまくなれるかどうかが、セカンドキャリアがうまくいくかどうかにおいて、とても重要な気がしています。われわれアスリートも最初は教えてもらいながら成長していくのですけど、ある程度の段階まで来た後にもう1回、生徒になるのは、心理的に難しい。素直に、言われた通りやるのがあまり上手にできなくなる。一方、これが上手な選手は、引退後もうまくいっている気がしますね。
柳川 何か習い事でも何でもいいから、まず生徒になってみて、怒られてみるみたいなことでしょうか。
為末 そうですね。
―― 急にピアノを始めてみたりとか、そういうようなことですね。
柳川 年を取ってピアノを始めると、指がうまく動かないから「なんでそんなに指が動かないんだ」と怒られるくらいのことをやっておくと、プライドのコントロールにつながるということですね。
為末 僕の感覚でいくと、ここまで出そうなものをグッと呑み込んで、言われた通りにやってみるという訓練だった気がします。なんとなくの自我があって、こうしたほうがいいというときに、「でも、その場合は……」と言ってしまいそうな自分をグッと呑み込んで、「はいっ!」と言われた通りにやる。その後に自分の頭の中でいろいろと考えるのはいいかもしれないのですが、とりあえずは言われた通りにやってみるのは、なかなか辛抱がいるなと思ったことがあります。それは、本業のところではなくても、趣味でやってみるのも大きい気はします。
また、先ほどの生徒になるというのとは逆のパターンですが、選手がセカンドキャリアで本当に2、3年全然ダメで、プライドも何もなくなって、うまくいかなすぎて、引きこもりみたいになっていくパターンもあります。
こういう選手は、例えば子どもにスポーツを教えると復活することがあるんです。有能感があって、自分がやってきたことが説明もできるし、相手が喜んで聞いてくれて、うれしくなる。全部のプライドを1カ所で成立させようとしないで、あるところでうまくいかないときも、別のところでは自分が支えられているという意味でも、複線である程度張られていて、その都度バランスを取る。こちらの世界では上っていくのはないかもしれないけど、別の世界ではより深く潜っていくとか、そういう形が現実的にはバランスがいいのかなという気もします。
●定期的に「自分は社会で何役なのか」と考える
―― 最後にお訊きしたいのですが、今回のお話の前半に、キャリアをどの時期に考え始めるかといったときに、「最初から考えておかないといけない」「自分がどうなりたいかを最初から考えないといけない」という話が出ました。
そして、山型というか、1回20年やって、またゼロなり、途中まで戻って、また行くという形のキャリアも、これからの社会では十分にあり得るし、そうしていかなければならないということでしたが、どういう覚悟なり、思いを持って自分のキャリアを描いていくべきなのでしょうか。もちろん、途中で変わってもいいとは思うのですけど、「なぜ、わざわざ20年で落ちなくてはならないのか」と思う人もいるかもしれない。「いや、俺、この会社にいれば、60歳までは普通に行くよ」みたいな人もいるかもしれません。
それでも、キャリアを設計するときに、どういう発想を持っていると、よりアグレッシブに、ポジティブに対応できる人間になれるかという点について、為末さんは、どのように思われますか。
為末 私個人の例でいえば、「自分は社会の中で何役なのだろうか」ということをすごく考えました。それはその都度変わっていくもので、アスリートとして競技をやっているときには、子どもたちに夢を与えましょうとか、日本人がまだやっていないことをやってみるとか、そういう役割だったのが、引退するとできなくなるわけです。
では、次は社会の何役なのだろうかと考えて、引退してすぐは、スポーツではない世界に行って、アスリート...