●財閥の道を選ばなかった渋沢栄一
―― 前回の寄付集めの話は、先生のこのご本のなかにもエピソードがありました。義援金だったでしょうか、岩崎(弥太郎)さんのところへ行って、「俺は5,000円出すから、お前1万円出せ」というような形で募っていくというお話でした。
渋沢 お互いに若い頃ですから、ざっくばらんにやったのでしょうね。
―― 人とのつながりがあるので、「俺も出すからお前も出せ」というような形で募っていったのでしょうね。
渋沢 それは、大変なことですね。
―― これまでのお話にも出ましたが、渋沢さんの特徴としてよくいわれるのが、岩崎家の三菱財閥や三井家の三井財閥との違いです。戦前はどちらかというとそうした財閥系の力が大きかったけれども、渋沢さんの場合はあまり財閥的な歩みをしなかったことが、よく言われているところです。
渋沢 (財閥的では)全然ないですね。亡くなったときの資産も、結局本当に少なかったと思う。三井家などは巨大な資本があっていろいろなことを手がけておられました。岩崎さんのところは、明治になってから突然出てきたのです。
―― もともとは土佐(今の高知県)ですね。
渋沢 ええ。旧土佐藩の資産をうまく利用したのでしょうけど、西南戦争などさまざまな機会に輸送を引き受けたわけです。そうすると、兵隊を送る、武器を送る。これで大変なお金を儲けたわけです。
(第3話で)大久保(利通)さんのお話がありましたが、大久保さんが岩崎さんを見て、「何かやらせればやる奴だ」と思ってやらせたのだというストーリーがあります。確かに、あの頃の明治の政府には、「人を見込んで任せる」というところがあったと思いますね。
●合本主義とワンマン経営
渋沢 明治10(1877)年頃、西南戦争の時に岩崎さんは、三井家など及びもつかないような利益を挙げたわけです。経営に当たっては全部自分に権力を集中させ、人事であれ賞罰であれ全て社長が決めると、岩崎家のほうには書いてあります(「三菱汽船会社規則:会社に関する一切の事(中略)すべて社長の特裁を仰ぐべし」)。そういうところは、何かアメリカの大きな財閥と似たような感じがします。栄一とほとんど同じ時代の人ですけどね。
―― 強烈なリーダーシップで切り開いていくやり方ですね。
渋沢 もちろん独占禁止法みたいなものができるとブレーキがかかりますけれども、スタートしたばかりの人たちには独特の力があったのでしょうね。岩崎さんもそうだと思います。だから、渋沢栄一を取り込んで一緒にやろうという話もありました。それはお断りしたようですが、なんとなくそういう人の付き合いも、明治の時代は面白いですね。
―― そうですね。岩崎さんはどちらかというと独裁的といいますか、一人の強力なリーダーシップで経済を運営していく思想。それに対して渋沢さんは「合本(がっぽん)主義」という形でいく。この合本主義というのは、どういう意味ですか。
渋沢 つまり、みんなからお金を集めて、いい仕事をして、その利益はみんなに均霑(きんてん)させるような形がいいということでしょうね。
―― 今でいうと株式会社ですね。「こいつは見込みがある」という人にみんなで出資をする、と。
渋沢 お金が絡むことだから、必ずしもみんな公平にやるかどうか知らないけれども、原理はそういうことだと思います。
―― なるほど。渋沢さんとしては、西洋で見てきた合本主義というものに新しい未来があると思ったというところでしょうか。
渋沢 でしょうね。例えばスエズ運河ができると、そこを通ってフランスへ行くわけだけど、ああいうすごいことを一つの国が考えて、方々からお金を集め、技術を集める。あのような運河が一つできると、世界を変えますよね。そういうことに、非常にびっくりしたのでしょうね。
●岩崎弥太郎との船舶競争
渋沢 「徳川幕府がやる」とかいうことではなく、関係する国全体が集まって大事業を起こし、みんなが利益を得るという姿に魅力を感じたのではないですかね。
―― 有名なエピソードとして、岩崎さんと喧嘩をされたと伝えられています。それで三菱の船舶事業と、渋沢さんの合本事業による船舶事業の競争などというものもありました。雅英先生は岩崎家のお血筋も引いていらっしゃるということですね。
渋沢 はい。私の母親(登喜子)は弥太郎の孫でしたからね。
―― 両方の立場をご存じということなのですね。
渋沢 いや、ご存じなんて、全然知らない。私の知る世界ではないですよ。
―― 二人の考え方がぶつかるのは面白いところですね。
渋沢 ええ、面白いし、全然違ったことを言っているわけですね。しかし、両方とも日本のためになっているところもあるわけです。そこが面白いというか、ああいうものができる時代というの...