●日本の近代化における渋沢栄一の意気込みと説得力
渋沢 銀行設立から先の約60年の渋沢栄一の人生は、そのベースの上で日本の近代化に向かう。近代化も経済だけではなく、例えば養育院のような社会福祉事業をやる。あるいは自分でつくったわけではないけれど、現在の一橋大学(当初商法講習所。その後東京高等商業学校)を支援したり日本女子大学(当初日本女子大学校)の設立に関わったりしました。そして、慶喜公の伝記を書く。そのように非常に千差万別のことに手を染めるわけです。
その視点の置き方というのは大したものだと私は思うのですが、それがどこから出てきたかと言われると、私には分からない。そういう新しい人間がそこにちょろっと現れてしまい、それが日本の近代化にいろいろな意味でお役に立ったのだろうな、と思います。
―― 前回、三井家というお話もありましたが、三井家などは本当に江戸時代から続く豪商ですね。
渋沢 大財閥ですね。
―― そうした大商人であって、そのまま財閥になっていきますね。江戸時代にも日本的な仕組みの中で金融経済も流通経済もあったわけですから、そこに近代的な銀行制度を完全にその機能も理解して持ってきた。しかも、それを持ってきた人が、前回おっしゃったように、自分の利益ではなくて、いかに国を発展させるか、近代化していくかという目的のために進めていくということの面白味ですよね。
渋沢 意気込みというのかな。人にそれを感じさせるものを、栄一は持っていたのでしょうね。だって、第一国立銀行は設立後数年で、出資者の小野組という会社が破産してしまい、一度つぶれそうになるのです。あれで駄目になってしまえば、銀行業というものは日本にすぐには根づかないことになったかもしれません。
ところが、栄一は一生懸命みんなを説得した。そうすると、小野組にいた偉い方の一人で古河市兵衛という方が、自分が統括する小野組糸店にあった資産を提供してくれたりします。そのため、第一銀行は総計2万円の損で危機を乗り切ったというストーリーがあります。これは、栄一の意気込みなり人間としてのあり方が人に信用されたこともあるし、説得力があったこともあるでしょう。
●日本のあるべき姿を描き、賛同者を募る
渋沢 栄一には銀行以外にも鉄道をつくるなど、主張したいことがいっぱいありました。郵便は、前島密という方が整備されたのですが、他にもさまざまな事業への思いがありました。栄一が説得すると、「じゃあ、一緒にやるか」と思われたのでしょう。もちろん全部成功したわけではないでしょうけれども、その説得力と栄一の佇まいは、非常に独特なものであると私は思っています。
―― 農民の出身でありながら、育ってくる中で武家社会も経験された。それも幕臣という将軍家の家臣ですから…。
渋沢 一橋家だからね。
―― 公の、国全体のことを考える立場を経験されたわけですね。しかもフランスに行って近代資本主義をつぶさに見てきた末、いわば敗者の側として日本に戻ってくる。この非常に数奇な運命の中、歩んできたのですね。
渋沢 そうです。その運命が何を意味しているか、栄一は理解できたのでしょうね。
―― なるほど、運命を理解したわけですか。
渋沢 運命というか、世の中の変化の意味が分かった。そして、「日本はこうあるべきだ」というような、大雑把な絵だとは思うけど、そうした絵を持っていた。だから、「こういうふうにしなくちゃいけない」と言うと、賛成する人がいたのでしょう。そこが素敵なところでね。
―― そうですねえ。
渋沢 全部の人がそうではなかったでしょうね。でも、栄一がいたから、真似して一緒にやっていこうという人はもちろんいたでしょう。それらの総和が「近代日本の資本主義の芽吹き」につながっていったということなのでしょうね。
―― まさにその「芽吹き」のベースに、志や心意気、あとは人とのつながり、信頼関係があったというところですね。
●「論語と算盤」の新しい視点を提供
渋沢 そうですね。それと一種の哲学というか、哲学というほどでもないけれども、ものの考え方ですね。
―― 司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」という表現をしましたが、坂の上の雲を目がけて走っていく群像の中の、一つの姿としてそういうものがあったというところですね。
渋沢 そうですね。それは大変なことだと私は思っています。
―― 今、哲学というお話もございましたが、栄一さんで有名な言葉として「論語と算盤」とよくいわれます。『論語』の精神と、「算盤」の精神というか資本主義的なものが必要だという。これについてはどのように理解されていますか。
渋沢 私は、『論語』が栄一の愛読書だったから、しょうがなくて読みましたが、実はあまりよく分からなかったというのが本当の...