●世界の中の小さな日本を理解していた渋沢栄一
―― 渋沢栄一さんの場合は、雅英先生が書かれた『太平洋にかける橋』のご本のちょうどタイトル通りで、いかに日米関係をよくしていくかということに、国民の立場で努力をされました。政府の外交ではなく、国民の外交ということで努力をしていった過程を、ここでは本当に詳細に描いていらっしゃいます。
私も拝読しましたが、例えばなぜアメリカで「排日運動(日本人を排斥していく動き)」が起きたのか。半ばは「日本はすごい」と言う人たちもいれば、「日本はちょっと危ない」とか「武力に訴えてくるのではないか」ということで脅威論を煽る人も出てくる。そういうアメリカの国内事情を非常に克明にお書きになっていますし、それに対して栄一さんがどういう努力をしたのかというのも非常に克明にお書きになっています。
栄一さんがお亡くなりになったのが昭和6(1931)年、ちょうど満州事変の年ですね。
渋沢 その年ですね。
―― 結果からすると、お亡くなりになって10年で日米戦争が始まってしまうのですが、その過程で「日本とアメリカにかける橋」としてどのような努力をされたのか、そのあたりをぜひお聞きしたいと思います。
渋沢 栄一という人は、「世界の中の日本」の立場というものを割と客観的に感じていたと思います。日本人はやはり小さい国に育っていますので、なかなかそういう感じではない。「日本はえらいんだ」と言ってみたり、「いや、駄目なんだ」とがっかりしてみたりと、落差があります。
その点、栄一は、「アメリカと中国の間に立っている小さい国」という自覚があった。今でもそうだけれども、当時は特にそうだった。そういう日本の立場に対する客観的な理解が、栄一は非常に深かったのではないかと思います。
●アメリカの財界人に胸襟を開かせた「国民外交」
渋沢 アメリカは、最初は日本をとてもかわいがってくれるのだけれど、あるときからだんだん日本が威張りだしたこともあって、ギクシャクしていきます。そのようなときでしたが、栄一はアメリカ人の間に非常に人気があるのですね。「論語と算盤」のせいかどうか知らないけど、栄一の雰囲気の中には、非常にアメリカ人が大事にしたがるような道徳的といいますか、精神性のようなものがあると思われたのではないでしょうか。
もちろん栄一は、政府の外交に口を出し...