●型に縛られず、あるがままの感情を表した渋沢栄一
―― アメリカの方々に非常に好かれたというお話ですけれども、アメリカの方からすれば、日本で500にのぼる会社を設立・育成するのに関与したという立志伝中の方ですね。しかも、先ほどおっしゃったように、道徳的な部分も非常に感じます。
また、この本を読んでいると、例えば演説しながら悔し涙を流したとか、ちょうどアメリカに行っているときに伊藤博文公が暗殺されたニュースを聞いて、汽車の中で記者にインタビューされながら泣いてしまったとか。比較的感情を率直に出される方で、何でも率直におっしゃるタイプの方なのですね。
渋沢 日本人は何かあればこういうふうに思わなくちゃいけないという、しばりのようなものがあるじゃないですか。
―― 型というか、定式というか。
渋沢 栄一はそれにあまりしばられないところがあって、何でもあるがままに受け入れて、悲しんだり泣いたりするのです。それほどイージーなことではないでしょうけれども、ありのままの自分が出てくるのでしょうね。
ここに来られた外国人、例えばドアのところに蒋介石さんと握手している写真があるけれども、彼は栄一に本当に感心していました。「日本人の中にこういう人はいない」と思うのでしょうね。だから、数年後に栄一が亡くなった時、蒋介石さんはやっていた会議をやめて黙祷をすると言い出した。「隣の国の大人物がいなくなってしまったから、悲しみましょう」と言ったそうです。
あの頃の日中関係はもう非常に厳しかったのですけれども、栄一については、そういうことを超えた別の世界でつながっていたという感じの人がいっぱいいたのではないですかね。
―― お互いの尊敬心というか、人間関係がそうさせたのでしょうね。
渋沢 この人は「政府がこうだから」というのではなく、「人間として」生きている人なのだという印象を与えていたのではないですかね。
●孫文・袁世凱・蒋介石とも交流
―― 今お話が出てきたように非常に率直であって、しかもまさに「論語と算盤」ではないですが、道徳心も高くあられた。目標は私の利益というよりも公の発展であり、世界の発展や国の発展のためであるというものがまっすぐ伝わってくる、ということですね。
渋沢 そうですね。自分でお金を儲けようという気持ちは確かにあまりなかったと思います。栄一はやっぱり、国がどうなるかということを思っていたのでしょうね。
―― 蒋介石の話も出ましたけれども、アメリカだけではなくて中国とも、例えば袁世凱と会うなど、結構関係を結ぼうとされていますよね。
渋沢 あの頃の日本は、例えば「袁世凱は悪い奴だ」というふうなことになっていたわけですね。でも、「会ってみると、そんなに悪い人じゃない」と栄一は思うわけです。優秀な人であるというか、「こういう人と仲良くできなかったら日本は駄目だよ」と思ったのではないですかね。そんなことを別に政府に言ったりはしないけれども、人間としてつながることを大事にしたのでしょうね。
―― 孫文にも会い、袁世凱にも会い、蒋介石にも会いと、本当にあの当時の中国の大物には軒並み会っていますよね。
渋沢 向こうも、経済交流をするには栄一と仲良くしたほうがいいという部分もあったでしょうしね。一緒にやりたいと思ったでしょうけれども、実際にはうまくいかなかった。でも、孫文とはとても仲良くなっていましたね。あの方は早く亡くなってしまうし、惜しいことをしました。
―― 栄一さんがご存命の間は、国の経済だけではなく、海外との交流という部分でも、いろいろなところを取り持つ非常に大きな役割を果たされたのですね。
渋沢 栄一の人生のあり方が、いろいろな意味で魅力的だったのでしょうね、他の日本人と比べてかもしれないけれども。
●現代の世界に渋沢栄一がいたら、どういう知恵を出したのか
―― ちょうど今の局面では米中対立もあり、なかなか世界の行方がどうなるか分からないような状況になりました。日本の資本主義も一時期、戦後はだいぶ上り調子で参りましたが、ここに来て、ちょっと下り坂が続いてしまっているという状況です。この局面で栄一さんがまた注目されるというのは、とても意味が大きいのかなという気がするんですが。
渋沢 そうですね。私が一番最初にそういうふうに思わされたのは、バブルがおかしくなった時です。「栄一がいたら、どういう知恵を出したでしょうか」というふうな論文が、新聞や雑誌によく出ていました。
「そうか、そんな昔のことを思う人がいるのか」と、その時は思いました。でも、実際そうだったと思うし、今もそうです。栄一がいて、何かやればいいと思いますが、しかしもう亡くなってこんなに長くたってしまったので、それはどうしようもないですね。
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