●一橋家からフランス留学の随行へ
―― (渋沢栄一さんの)お生まれは、今でいうと埼玉県の深谷市ですね。
渋沢 深谷市の近郊です。
―― そちらの裕福な農家とうかがっています。
渋沢 ええ。藍や養蚕などを手がけて年商1万両という話がありますので、かなり成功したアグリビジネスというのですかね。経営は栄一のお父さんでしょうが、一緒にいろんな本を読んだり、勉強したり、それをマネージすることで栄一は育ってきたのでしょう。
その知恵を、一回り大きな一橋藩というものに応用して、大変成功したという話です。しかし、その頃に慶喜公が将軍様になるのです。そうすると、一橋家の家来としての渋沢栄一の立場ではなくて、日本幕府の一員になってしまいます。
―― 幕臣ということですね。
渋沢 そう、幕臣になってしまった。それはもともと栄一が望んでいなかったことだし、非常に失望してがっかりしていたところへ、慶喜公のお声掛かりがあったということです。
そして、フランスのナポレオン三世という人がパリで万博を開くので、日本からも代表が行くことになった。慶喜公の弟さんで民部公子(みんぶこうし=徳川昭武)という方が行かれるので、その随員の一人にならないか、という。慶喜公の見るところ、渋沢栄一というのはマネジメントができる奴だから、そういう人間を付けておいたほうが、栄一のためにもいいし、グループのためにもいいと思われたのではないかと思います。
ある日、突然そういうことになり、栄一はすごく喜んだわけですよね。あの頃、フランスに行くなんてことは望んでできることではない。最近はコロナで国際旅行もできなくなったけど、当時はそういうこと自体なかった。それで勇躍、喜んで出かけていく。見聞も広まるし、食べ物から何から全てが新しい世界に入り、1年半ぐらいの時間を過ごします。
●資本主義の芽生えは、維新で没落した徳川家から
渋沢 その間に鳥羽伏見の戦いがあって、慶喜公は江戸に。これを何と言うのですかね。
―― 大坂湾から船に乗って帰ってきてしまうと。
渋沢 そうですね、とにかく恭順する。
―― そういうことになりますね。
渋沢 天皇陛下の国にするということで、そのへんのことは私には説明できないのですが、とにかく慶喜公が大政奉還して、幕府は終わるわけですね。それで、フランスにいた弟さんにも「帰ってこい」と御使いが来ます。弟さんはその後、水戸のご当主になられるのですが、栄一もその時に一緒に帰ってきます。それまでの1年半ほどの体験というのは、相当たくさん面白いことがあったのだと思います。
帰ってくると、静岡に移った慶喜公の後をついていくわけですが、何十万両かのお金をもらった静岡藩は、放っておけばお金がなくなってしまうという危機に瀕していました。
―― たくさんいた幕臣の方々も大挙して駆け付けた、ということですね。
渋沢 「旗本八万騎」といわれるほどの人がいて、みんな幕府から給料をもらっていた。(維新で)給料がもらえなくなった彼らを抱えるのは大変でした。そこで、(栄一は)静岡の自立のために一生懸命働くわけですが、ここに「資本主義の始まり」のようなところがあります。
それほど長い期間ではありませんが、その間は家族も深谷から呼び寄せました。当時は利根川を船に乗ってやって来て、江戸川を下って東京に至る。そんな彼らと東京で落ち合って静岡へ向かう。6年ぶりの家庭生活が再開したわけです。そういうことを始めて、静岡藩では「大変いい人が来た。一生懸命やってくれて、結構だ」と喜んでもらいました。
●例外的な人材登用政策のもと、政府の人間へ
渋沢 そして、これも“奇跡”の一つですが、栄一は明治政府にスカウトされて、大蔵省の局長ぐらいの立場の人になっていきます。これも私は非常に不思議なことだと思います。日本では、あの頃はもちろんのこと、お父さんやお祖父さんなどの家柄がないとなかなか偉くなれない。人事的にはそういう構造になっていたはずです。
―― 特に江戸時代はそういう気風が色濃いですね。
渋沢 ところが、江戸時代が終わる、つまり明治時代が始まる直前までの十数年の間は、「優秀な人間は誰でもつれてこい」というような人材登用政策が取られていました。薩摩も長州も熱心に取り組み、栄一の場合には大隈重信という人が一生懸命運動してくださったみたいです。そのような現代的な人事政策が行われたのは、日本史の中でもほんの10年か15年の間で、その前にも後にもそれはなくなってしまいます。明治以降はなくなってしまい、今もあまり例を見ません。
―― あの時は、考えてみると、栄一さんは幕府方の人間だったわけですから、薩摩・長州閥からすれば一応敵方になるわけですよね。
渋沢 そうですね。しかも百姓でしょう。だ...