●「青淵文庫」の由来
―― 皆様、こんにちは。本日は渋沢雅英先生に、渋沢栄一さんのことについてお話を伺いたいと思います。先生、どうぞよろしくお願いいたします。
渋沢 よろしくお願いいたします。
―― 今日、こちらの場所をお借りしておりますのは、王子駅ほど近くの飛鳥山にございます「青淵文庫(せいえんぶんこ)」というところで、まさに栄一さんゆかりの場所でございます。ここはどういった場所になりますでしょうか。
渋沢 本来、この土地には栄一が何十年も住んでおりまして、ここで亡くなりました。大きな家もあったのですけれども、それは空襲で焼けてしまいまして、残ったのがこの建物ともう一つだけ(「晩香廬」)です。そちらは文化財に指定されております。
青淵文庫というのは、栄一のお弟子さんというか、明治の初めからお付き合いしていたグループの方が、大正の終わり近くなって、記念にこういうものをつくって、栄一に寄付をしてくださったのですね。書庫ということですが、栄一にはいろいろな人との往復書簡が多量にあって、びっくりするようなものもいっぱいあったはずなのです。それに、古来何千とあった『論語』のいろいろなバージョンも持っていました。
栄一は、大事にしてきたそういうものをみんなここに入れようと思っていたのですが、関東大震災で全部焼けてしまいます。「非常に残念だ。地震が火事につながるとは知らなかった」というようなことを(言い方は違うかもしれませんが)言っていて、非常に残念がっていたものです。
ここ(青淵文庫)にはそういうものは入りません。でも、きれいな建物なので、例えば蒋介石さんがいらしたり、海外の賓客がおいでになった時、お話をするために使われておりました。できたのが大正14(1925)年で、栄一の亡くなったのが昭和6(1931)年ですから、その間だけのことでしたけれども。
―― なるほど。本当に貴重な場所をお借りいたしまして、ありがとうございます。
渋沢 いいえ。こちらこそ。
●孫が編纂した68巻、4万5000ページの『伝記資料』
―― それで、雅英先生は栄一さんの曽孫さんに当たられるわけですね。
渋沢 はい。
―― 『太平洋にかける橋』という、(栄一の)非常に面白い伝記を書かれています。日米や日中の民間(国民)外交に、栄一さんがどのように当たられたかということについて、アメリカの事情なども本当によく調べられてご執筆になっています。この本の内容については後でぜひお聞きしたいと思いますが、こちらのご本によると、雅英様のお父様(敬三)が栄一さんの跡を継いだ形になるわけですね。
渋沢 そうです。孫ですけれども、敬三と申しました。
―― それは、いわゆる「当主」のような形になったということですか。
渋沢 そうですね、栄一の「跡取り」(この言葉は今は流行らないかもしれないけれども)であったわけです。ついでですけれども、敬三はやはり栄一を非常に尊敬して、彼の『伝記資料』を出版することを志しました。40年ぐらいかかったでしょうか。全ての手紙、新聞記事など、あらゆるものを集め、大事だとか大事でないという主観を入れずに、全部ベタッと並べて出版しました。
結果として68巻、4万5000ページの『伝記資料』というものができました。それがベースになって、今、渋沢栄一記念財団というものがいろいろな仕事をすることができるようになりました。それがなかったら昔話の集成になってしまうので、ベースとなるものを敬三がつくったといえるかもしれないですね。
―― やはり、そういうアーカイブの大切さですね。
渋沢 そうですね。個人であれだけの材料を出版したという人は、世界にもあまりいないのではないかと思いますね。
●渋沢栄一自身が編纂した『徳川慶喜公伝』全8巻
―― 失礼ながら、雅英先生は御歳…。
渋沢 私は関係ないですよ。私は栄一が死んだ時は6歳の子どもでございますから。
―― 6歳の時。そうでございますね。
渋沢 その頃から敬三はそれをやっていて、敬三が68歳で亡くなる時にはまだ完成していなかったのです。
―― そうですか。じゃあ、本当に生涯を懸けた事業ですね。
渋沢 敬三にとってはそうですね。ご一緒にやる方は他にもいっぱいおられたと思いますけれども。
―― 考えてみると、それは、栄一さんご自身、もともとの御主君であった徳川慶喜公の伝記資料を作るのに相当力を入れておられたというところにも関係がございますでしょうか。
渋沢 ほぼ同じような発想でやっていますね。慶喜公に関しては、栄一とはまた違って、日本の最高指導者であった人だし、有名人でもあるし、徳川家の方でもあります。その資料を正確に残し、正確に伝えるべきだという意識は敬三とよく似ていたのだと思います。だから、『徳川慶喜公伝』...