●銀行も銀行制度も自らつくった渋沢栄一
―― エピソードとしては、大久保利通との話が残っています。当時、最大の権力者であり実力者といえば大久保だと思います。その彼が、「軍の整備のためにこれだけ(予算を)寄越せ」と言ってきたのに対し、渋沢栄一さんが憤然と楯突き、喧嘩をしたということで、時の権力者に思い切り楯つくということまでされたわけですね。
渋沢 「入るを量りて出ずるを為す」というのでしょうか。つまり、入ったものが分からなければ、出すほうは決められないよ、といういわば正論ですよね。今の政府もあまりやっていないようだけれども(笑)、それを主張したのです。それで、大久保さんとはあまり仲がよくなくなったみたいだけれども、栄一の官僚としての、あるいはリーダーとしてのステータスは上がりました。たった3年半で、一種の人間的な幅ができた、ということでしょうか。
―― ですよねえ。
渋沢 銀行設立準備を進めているなかで、政府を辞める。当時は政府の役人になるのは大変有利なことで、みんななかなか辞めない時だったのですけれども、率先辞めて、民間に下るということをします。そして、それができると今度は銀行を足場にして、王子製紙の工場を開業させるとか、つまり近代化に本気になるという場をつくったわけです。
―― しかも、栄一さんの場合は、銀行制度自体をつくるのにも関わっておられた。制度をつくり、自分で銀行を動かすということですね。大蔵省に勤めていた時に「国立銀行条例」を起草して、ご自身で「第一国立銀行」を開設されたということなのですね。
渋沢 西洋式金融機関の初めの第一発ですね。その責任者になったのは、三井家などいろいろな出資者たちの同意や頼みに応じたわけで、最初は「総監役」という役職に就きます。
その後41年、栄一は頭取勤めをするわけですけれども、それが一つの足場になり、いろいろな人と語り合って鉄道をつくる計画などに結びついていった。そういう構想は政府にいたときもあったかもしれないけれど、鉄道をつくるなど、そう簡単にできるものではないですよね。そこで、蜂須賀茂韶(旧徳島藩主)とか伊達宗城(旧宇和島藩主)とか、そういうお大名のお金をたくさん…
―― 貯蓄といいますか、お預かりした。
渋沢 お預かりして、それで鉄道をつくって、配当をお返しするという資本主義のあり方を実践しようとした。その他にもお金持ちの方はいっぱいいたでしょうし、そういう方たちが栄一の言うことに賛同してくれたのは、彼の信用力というのかな、信憑性というものができていたのでしょうね。
新政府でなかなかやってきた実績もあれば、人脈も、前回申し上げたように伊藤博文や井上馨など、いろいろな人を知っている。それで、事業家としての栄一のクレディビリティ(credibility: 信頼性)というものができたわけでしょうね。
だから、いろいろな人から、「ぜひうちへ来てくれ」と頼まれた。三井家なども、「三井の番頭さんになってくれ」と言ってきた。三井家は十何軒の家が集まってできている大きな財閥ですけど、その当主の皆さんが集まって、栄一夫妻をご馳走するという騒ぎもあったようです。
●妻・千代の功績とナショナル・リーダーとしての出発
渋沢 栄一の奥さんの千代さんという人は、深谷近在の農家のお嬢さんでした。それが急に静岡に来たかと思うと、東京に出て明治の官僚の奥さんになり、それから銀行家の奥さん、つまり実業界の夫人になる。そういう変化に、どうして田舎のお嬢さんが対応できたのか、というのが私の疑問です、
でも、彼女にはできた。だから、栄一はその奥さんを非常に頼りにしました。忙しい栄一は、多彩な人を呼び集めては、自宅でいろいろなことをやりました。銀行業の将来などについての会合などですが、そういう趣旨をいちいち理解してご馳走をつくったりもてなしたりするのは、奥さんの功績でした。
だから、栄一という人は非常に恵まれていました。今まで申し上げてきたのは、「奇跡の10年」のあらましですが、その10年間に栄一は違う人間になったと私は思うのです。
―― 違う人間になったわけですね。
渋沢 高崎城乗っ取りを考える攘夷の実力行使派だったのが、一橋家に行き、フランスに行き、明治政府で働いたわずか10年の間に(奇跡が起こり)、そこから出てきて銀行の頭取に収まった時には、全然違った「ナショナル・リーダー」になっていたということだと思うわけです。
それを世の中もそれなりに意識して、ファミリーを呼んだりなどして大事にしてくれました。もちろん栄一は「三井の番頭さん」にはならなかったわけで、「私は第一銀行でやります」ということで頑張っていき、43年の間にそれなりの成果を挙げたのでしょうね。