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空海の『十住心論』が説いた「真言密教こそが最高の教え」

【入門】日本仏教の名僧・名著~空海編(3)『十住心論』と真言密教

賴住光子
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部倫理学研究室教授
情報・テキスト
高野山(金剛峯寺)
『十住心論』は空海の主著といっていい名著だが、そこでは世界の思想を集大成して10の段階に分け、その頂点に真言密教が位置する。まったくの無知から仏教以外の宗教を経て、小乗・大乗へ。密教と対立する9つは顕教だが、その中に密教の萌芽が潜むともいわれる。(全3話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:16:46
収録日:2020/08/20
追加日:2021/03/18
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≪全文≫

●あらゆる教えを集大成して段階を分けた『十住心論』


―― では、次の文章にいきたいと思います。第1話でも少しお話の出た『十住心論』ですが、これはどういう書物になるのでしょうか。

賴住  『十住心論』は、空海の主著といっていいと思います。先ほど少し申し上げたように、世界のあらゆる教えや人間のあり方などを集大成して、最終的にそれが真言密教の立場の中で包み込まれていく。そのようなことを空海自身が言っていますので、非常に体系的な書物であるといわれています。

―― 以下の10項目を挙げていただいていますが、この10個はそれぞれどういうものですか。

賴住 まず、「異生羝羊心(いしょうていようしん)」とありますが、これは人間の一番原形のようなものです。「善悪の道理に暗く、煩悩のままに生きる段階」と書きましたが、まだ人間が人間になっていない動物のような段階で、何がいい・悪いというものも分からず、欲望のまま、煩悩のままに生活している段階ということです。

―― ということは、これは一番低い段階だという位置づけですね。

賴住 そうですね。一番低い出発点ということになります。


●動物から童へと進んでいく「非・仏教」の階梯


賴住 その後が「愚童持斎心」ということで、だんだん人間らしくなっていきます。よく倫理の立場ということを言いますが、世の中のルールがだんだん分かり、何がいいのか悪いのかが分かってきます。それにより、こうしなければいけない、ああしなければいけないということができてくる段階。仏教的な立場からいえば、人間の本来持っている仏性(仏の本質)が少しずつ花開いてきた最初の段階ということで、少し人間らしくなった段階です。

 ただ、倫理の立場については全部で10個あるうちの2番目ということで、空海の立場からは非常に初歩的と考えられているわけです。

―― なるほど。現代に生きるわれわれは、もしかするとせいぜいこの段階のような感じかもしれないですね。

賴住 そうですね。本当になかなか1、2の段階から抜けられないということもあります。

―― 抜けられない。さらに8つあるわけですけれども、3番目はどういうところでございましょうか。

賴住 3番目は「嬰童無畏心(ようどうむいしん)」といいます。これは人間界の苦を逃れ、天上界に憧れて安心立命を求める段階ということです。例えば、道教などのように山の中で修行して仙人になろうとか、不老長寿の身になろうとか、そういうイメージだと思います。

 仏教では、不老長寿を目指すようなことは煩悩だといいます。しかし、宗教によっては、現世利益というものが最高だというような説き方もいたします。そういう仏教以外の宗教を3番目に立てているということです。


●「無我」を知り始める声聞乗の段階


―― では、4番目でございます。

賴住 これは「唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)」となりまして、「声聞乗」と書きましたが、いわゆる小乗仏教です。「声聞」は声を聞くということで、釈迦の声を聞いて修行していた直弟子たちを指します。

 大乗仏教は、こうした声聞乗の人たちよりも、ずっと後になって出てきます。声聞と呼ばれた小乗仏教の人たちは釈迦の直弟子という位置づけになるのですが、仏教の最初の段階ですので「無我」ということが仏教の基本です。「我」というのは、自分を成り立たせている何か不変の実体や本質がないというのが仏教の基本的な立場なので、そこはちゃんと確保している人たちです。

―― 先生、「無我」のところをもう少し補足していただくと、どういう意味になりますか。

賴住 「無我」は仏教において非常に大事にされます。要するに私たちは、何か不変の本質があるというふうに思っています。

―― この私自身というものが不変的にあるということですね。

賴住 そうです。(我が)あると考えているわけです。例えば私たちは、生まれると名前を付けられますが、その名前は変わらないので、名指される「私」もずっと変わらないと思います。表面的には変わっても、何も変わらない私がどこかにあるという考えです。

―― 自分の本質がどこかにあると考えているわけですね。

賴住 そうです。そういうふうに考えていると思うのですが、それは違う、というのが仏教です。


●「私」が非実在であれば、老いも死も受け入れられる


賴住 仏教では、人間は迷い、苦しみ、煩悩があると捉えますが、それは間違った考え方をしているから迷いや苦しみになるのであり、正しく考えれば迷いも苦しみもなくなるという立場です。ただ、なぜそういう迷いや苦しみが出てくるのかというと、(我が)ないにもかかわらず、あると考えているから苦しいのだ、というのが仏教の立場です。

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