●『秘蔵宝鑰』のパトスに訴えかける手法はインド映画にもある
―― ここまでに『秘蔵宝鑰』の序文がいかに素晴らしいか。
鎌田 ドラマチックです。
―― ドラマチックにできているかということをお話しいただきました。これまでのお話では、『秘蔵宝鑰』自体は『十住心論』の十の段階を説明したものということでした。そして、そのそれぞれの段階に詩を入れているということなのですね。
鎌田 そうなのですね。そこが『秘密曼陀羅十住心論』という哲学書的な固いタイプのものと、『秘蔵宝鑰』の書き方の違いですね。つまり、一つひとつの意識の段階を説明するところに、漢詩で書いた「偈(げ)」「頌(じゅ)」という詩文がそれぞれに入っている。
例えば、光源氏を主人公にした『源氏物語』には、700(~800)首ぐらいの歌がある。『古今和歌集』が1110(首)ぐらいですから、そこまでは至らないにしても、『源氏物語』の核心部分は歌になっているでしょう。地の部分の説明があり、一番心の部分は歌になっている。そういう歌の部分があることで、味わいとして胸に迫るものがあるわけですね。
こういうパッションというかパトスに訴えかける手法というのは、われわれの大衆文学にも、インドの映画にもある。ある箇所になると急に歌になって、ワーッと…。
―― 踊り出すのがありますよね。
鎌田 踊り出す。まさにあれなのです。ある瞬間から踊りが始まっていて、そうなるとテンションが急に変わってしまうような感じ。それを、詩文で表現している。
●手に取るように分かる「十の段階」の詩文表現
鎌田 例えば第一の「異生羝羊心」も、性欲や食欲に執着する迷いの状況の中にあるわけなので、そこのところを説明する文章としては(次になります)。
「凡夫は善悪に盲いて 因果あることを信ぜず”
但し眼前の利を見る」
目の前にある自分の利益、自分にとっていいこと、食欲であるとか性欲であるとかというものだけを見る。
「何ぞ地獄の火を知らん」
そういうところから、煩悩の迷いというようなものが生まれてくることが分かっているのだということ。
「羞ずることなくして十悪を造り 空しく神我あると論ず
執著して三界を愛す 誰か煩悩の鎖を脱れん」
こういうふうにして、「異生羝羊心」という最初の段階が、執着...