●江戸時代は庶民にとって幸福な時代だった
―― 前回のシリーズ(家康編)に引き続き、「どうして徳川時代はこれほど長く続いたのか」という話をしていただきたいと思います。
一つには、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光などによって初期に作られた統治や人材登用などの仕組みに、とても知恵があったのでしょう。知恵がなければ、非常に長い間、続きません。そのあたりから教えていただけますでしょうか。
山内 われわれはよく「上から目線」という言葉を使いますが、「下から目線」という言葉はあまり使いません。「上から目線」は否定的な意味で使われることが多いのですが、政治史を勉強していると、つい「上から目線」の立場で、家康などの将軍、老中をみることになる。ただ、時には「上から目線」ではなく「下から目線」、つまり「庶民の目線」というものを考えなければいけません。
そのような意味では、世界史の中で江戸時代は、同時代の中国やヨーロッパと比べた場合に、庶民たちが幸福な時代だったと思います。
確かに、百姓一揆などの問題も起きます。税制の問題も起きます。しかし、他国における大衆反乱や民衆運動、農民暴動への対応や事後措置と比べた場合に、日本の統治体制は全体として比較的緩やかなものでした。
特に江戸時代に焦点を当てると、さまざまな浮世絵や文学などを通して分かるのは、江戸の町人や商人たちは、他の国に比べて相対的に幸せだったということです。つまり、庶民の幸福感や、日々の生活の中での納得感などが、そこはかとなく漂っていた。そのような時代だったからこそ、270年もの間、同じ支配者のもとで統治が続いた、ということが言えるのです。
―― 確かに同時代で見たとき、庶民は(他国ではなく)江戸に生まれたほうが幸せだったと言えますね。
山内 あるいは大坂・京都、その他の地方の城下町などにも同じことが言えます。いずれにしても、江戸時代は幸せでした。
●徳川吉宗には庶民感覚が身についていた
山内 例えば、徳川吉宗(8代将軍)の時代を見てみましょう。7代将軍の家継で、家康、秀忠からつながる系譜が切れました。そこで、御三家の紀州家から吉宗が入り、将軍に就いた。これは御三家の制度が生きた最初の例です。その時、吉宗は、紀州ですでに藩主として統治経験を持っていたのです。
―― 確かにそうですね。
山内 参勤交代も行っています。ということは、東海道筋や江戸の城下、紀州和歌山の城下、あるいはそこに行くまでの様子を見ている。紀州藩の参勤道は基本的に「宮の渡し」(熱田神宮のあたり)から船で対岸に渡るのですが、桑名ではなく松坂に直接つけます。松坂は、現在は三重県ですが、当時は紀州藩領でした。そのように東海道から紀州藩領の伊勢に入り、山筋を通って和歌山に入る。それから、後に彼は藩主として、大坂経由も考えて行っています。
―― 大坂経由もやっているのですか。
山内 大坂という商が栄えている風情や、尾張藩あたりの雰囲気、なんといっても東海道筋の宿場の模様も、吉宗は見ているわけです。吉宗自身が庶民というわけではありませんが、彼に非常に庶民感覚があったのは、そのためです。
彼の母親は、出自もはっきりとしない人です。「浄円院(じょうえんいん)」というのですが、京都の方からやってきて、紀州で困窮八苦して救われ、紀州藩の家臣のもとで世話になり、そこから吉宗の父となる光貞に召されて、やがて吉宗を生んだ、と言われています。ただ、この母(浄円院)の由来についても、さまざまな説が伝わっています。そのような意味では苦労と、そしてある種の庶民性があったわけです。
―― それまでの将軍たちとは全く違いますね。
山内 今までの将軍たちは、基本的に江戸城、そして江戸城の大奥で生まれています。4代将軍・徳川家綱の弟である徳川綱吉(5代将軍)は館林(たてばやし)に、徳川家重(9代将軍)は甲府に藩領を与えられたのですが、基本的に彼らは神田といった江戸城のすぐそばに御殿が与えられ、そこで育ちました。子どももそこで生まれています。基本的に江戸城の人間であり、外から閉ざされた世界です。
吉宗はそうではないところが、非常に面白いのです。尾張藩が記録している資料の中に、こうあります。吉宗たち紀州藩が参勤交代で紀州に帰る時、草履を履いているけれど裸足で、いちいち羽織も着ないで移動用の小袖一枚だという。つまり、(現在でいえば)ジャケットやスーツを着ないで、ワイシャツで腕まくりしているという感じです。尾張藩は非常に贅沢な藩なので、それと比べて対照的だといっているわけです。
●健康にも留意していた徳川吉宗
山内 当時、吉宗と同時代あたりの尾張藩主は、徳川吉通(よしみち)でした。その吉通はとても酒が好きで、いろいろなお酒の飲み方をす...