●「権利」も「人生」も「地上の命」も、宗教家や武士は語っていない
―― 次に「死」についてお願いします。「死に死を与える」という言葉がありますね。
執行 第4部の第1節ですね。「死」という詩の中に「死に死を与える」という、ちょっと意味不明なことが書いてあります。これがどういうことか。
―― これは、すごく難しいですね。
執行 そうですね。大前提としては、肉体に囚われているわれわれが、自分の人生を「肉体のある人生が人生」と思っている限り、絶対にわからない言葉です。キリストが言うような「永遠の生命」が、実は人間の本当の命であるとわかると、わかるのです。
だから死というものは、人間にはない。われわれが死が本当にあると思っている限り、地上の子供なのです。臍(へそ)の緒を断ち切ってないのです。地上にいて、地上の物質は全部腐り果てていくから、われわれは地上の物質として腐らなければならない存在だというのが、われわれの死の観念です。そこを超越しなければならないということです。
これには1つの例があります。信仰を失っていったルネッサンスの頃のジョン・ダンという英国の詩人の詩です。私はダンが好きで、彼が信仰生活で一番重要なことを詩にうたっています。やはり同じような言葉があり、「死よ、お前は死ぬのだ」というのです。
―― 似てますね。
執行 同じ境地にみんな到達しているのです。死を死として気にしているうちは、霊性文明は一切わからない。だから霊性文明に入ったときは、人間は死を忘れなければだめなのです。
死を忘れた生き方というと、武士道では死に向かっていきます。死の哲学です。でも山本常朝も言っていますが、実は死の訓練を毎日するのは、死を忘れることでもあるのです。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と言いますが、最初から「死が人生だ」と思っていれば、逆説的ですが、私も武士道で生きてきたため「死がない」のです。
―― なるほど、最初から。
執行 死に向かって生きていると思っていれば、死はない。死に向かっているうちに、人間の死などを乗り越えた価値観が身についてくるのです。それが『葉隠』のいいところです。それと同じことを言っているのです。
西洋では人間生命の真の価値について、(マルティン・)ハイデッガーという哲学者が言っています。「生命とは、死すべき存在である。死に向か...