●ベラスケスのキリスト像は「永遠の命」を描いた唯一のもの
―― ウナムーノは、なぜベラスケスの描いたキリストと対話することになったのでしょう。
執行 私はキリスト教が好きなので、キリスト教の磔刑図はあらゆるものを研究し、見てきました。そのうちの目ぼしいものは全部、社長室に貼り、家にも飾って、何十年と見てきました。ずっと磔刑図だけを眺めてきた。
するとわかるのですが、ベラスケスのキリストの像は「永遠の命」を描いた唯一のものなのです。他の画家が描いたものは、ダ・ヴィンチやゴヤなど、どんなに偉大な画家でも表面しか描いていません。永遠の命を描けたのは、私はベラスケスだけだと思います。
これは「感じるもの」です。ウナムーノもたぶん感じた。プラド美術館の中心として飾ってあるのだから、多くの芸術家が感じたのだと思います。
―― 私も3回見ました。
執行 それだけ深遠なところを描ききったベラスケスの名画だから、その芸術的観点からウナムーノは見たのだと思います。
ウナムーノは非常に誇り高い人間だから、自分が一生涯かけて対決する相手なのですから、相手もそれなりでないとだめです。やはり現世人類最高のキリスト図と言えるのがベラスケスで、これが第一の理由です。
また先ほどから何度も言っていますが、ウナムーノは近代人で、ベラスケスは中世末。その魂の対決です。中世と近代が、この絵と対峙していると、完全に対決できるのです。自動的に。絵ができたのが中世末から近世の初めだから、ちょうど歴史的にもいい。だからウナムーノは最初から人類の行く末というか、人類がどうなるのかが、気になっていたのだと思います。それに対してベラスケスが一番答えているのです。
―― 絵の中に込められている魂を見たのですね。
執行 そうだと思います。私もそう感じます。他のキリスト磔刑図と比べると、簡単に言うとオーソドックスで、一番飽きないのです。他のキリスト磔刑図は、最初はいいと思っても、毎日見ていると飽きます。ベラスケスだけは飽きません。
―― 飽きないんですね。
執行 だから「どこ」と言われると困るのです。簡単といえば簡単ですが。
―― でも飽きないというのは、すごいですね。
執行 「飽きない」イコール「永遠につながってる」ということですから。
―― 確かに「飽きない」は永遠につながっています。
執行 だから深いところに入っているのだと思います。そこにウナムーノは人類の初心の気持ちを感じたと思います。
これは私の穿った見方ですが、ウナムーノはベラスケスと対決することによって、自分の中に「新しい創世記」をつくろうとしたように思います。
●希望的観測を言う人だけが成功する時代
執行 「新しい創世記」という言葉が私は好きで、これはエルンスト・ブロッホというドイツの哲学者が言った言葉です。いつも引用しています。
真の創世記は「初め」ではなく「終わり」に来る。終わりにあると、エルンスト・ブロッホが『希望の原理』という哲学書の最後に言っているのです。
―― 終わりにあるのですね。
執行 われわれは「創世記」というと、人類の初めにあると思っています。聖書にもそう書かれていますが、エルンスト・ブロッホは人類の終わりに創世記が来ると言っている。 私もそう感じます。これをウナムーノもわかっていた。
だから「人類の終末」イコール「新しい人類の出発」です。これをウナムーノは感じて、そのためにベラスケスが一番良かったのだと思います。
―― 魂の戦いにはベラスケスが良かったのですね。
執行 そういうことです。人類の未来を見るうえで一番いけないのは、希望です。今は希望が素晴らしいこと、一番いいことと言われますが、原子爆弾から始まって、人類がなぜ滅びるかというと希望を持っているからです。嫌な言葉ですが「われわれはもうだめなんだ」とわかれば、直ると思うのです。でも誰と話しても「なんとかなる」と思っています。偉い人と話してもそうです。
私が武士道を勉強してきて一番思うのは、このいやらしい根性を捨てない限り、現行人類はだめだということです。私も希望が好きでした、若い頃は。エルンスト・ブロッホの『希望の原理』という大著まで読みきった。読みきったのは、やはり希望を持ちたいからです。
―― それはよくわかります。
執行 いろいろ研究して「ひどい」と思うけれど、「でも」と思って読むのです。なぜ、エルンスト・ブロッホのこの言葉に感動したかといえば、「希望の原理」という哲学を標榜する有名な哲学者が、自分の著作の最後に「真の創世記は初めではなく終わりに来る」と書いたことです。つまり「人類が滅亡する」と言っている。それに感動して、この哲学書を本物だと思いました。
言葉は変かもし...