●かつて人間は信仰のために死ねたが、いまは無理である
執行 霊性文明というのは、「昔の宗教家が持っていた魂」と葛藤することによって、「新しい人間の魂」を生み出すことです。その意味で、禅やキリスト教、仏教は大切です。ただし、昔の禅の大家、私が尊敬している臨済(義玄、りんざい・ぎげん)や百丈(懐海)、趙州(従諗) といった人たちの本もたくさん読んでいますが、絶対になれません。なれないものは、もう頑張ってもだめです。
―― 確かにそうですね。なれないものを頑張ってもだめ。
執行 臨済は禅の境地に行くために、弟子を全員殺したのですから。馬鹿な質問をしたら鉄扇で額を叩き割られた。これは本当の話です。
こんなことは今はみんなしないし、もう無理です。だから宗教は無理です。今の宗教は、宗教ではない。本当の宗教とは、信仰のために死ぬことですから。
―― 確かにそうですね。信仰のために死ぬこと。
執行 早く死ぬほどいいのです。だからみんな喜び勇んで、早く死んでいくのです。昔の日本人で、死を恐れる人はいません。早く死ぬほうが立派だから。本当にそうなのです、信仰があるときは。その信仰には戻れない。
―― 確かに戻れないですね。
執行 したがって信仰していた人たちの魂と対話して、命の本当の価値は何かを考えつづける。そして葛藤しつづける。そういう文明に行くしかないということです。
ただ、われわれ人類は、過去に偉大な宗教家を生み出しました。この人たちとの葛藤だけで、霊性文明になれると、識者もみんな言っています。現に、ウナムーノも達成していて、それが記録として残っているのが『ベラスケスのキリスト』です。
―― なるほど。対話と葛藤で霊性文明に。
執行 葛藤だけで「永遠の命とは何か」をウナムーノもつかめています。ウナムーノは「自分には信仰はない」と言っています。ウナムーノは有名な哲学者で、このような話をするので、ローマ教皇から破門されています。
―― 破門されたんですか。
執行 カトリシズムで、死ぬほど苦しみ抜いた人ですが、実際には破門されている。なぜなら、あまり言いたくありませんが、今のキリスト教が、もうキリスト教ではなくなったからです。
―― 変わったものになってしまったのですね。
執行 慈善団体です。慈善は悪いことではないですが、宗教ではありません。たとえば今の教会は何かあったら親切で、バザーをやったりします。あれは、昔の宗教に付随していた、ちょっとした枝葉です。
―― 本質じゃない。
執行 本質ではない。これは、内村鑑三も言っています。明治にキリスト教が来たとき、キリスト教徒になった人が、みんなすごくいい人になった。人に親切なのを見て、「とんでもない話だ」などと本に書いています。
キリスト教を信じなければ、地獄に落ちる。終末に必ずキリストが再臨し、教徒だけが永遠の命に結びつけられる。これを信じるか信じないかがキリスト教だと、内村鑑三も言っているのです。だから親切だとか、何かをしたなどということは関係ない。そんなものはどうでもいいことだと。
―― 内村鑑三は、ゆえに独りになっていくわけですね。
執行 そう。あの当時でも、そうなんです。
―― 明治の頃でもそうだった。
執行 なったのは大正の終わりです。まだ明治にはいたのです、内村鑑三と一緒にキリスト教の信仰のために死のうという人間が。それが大正デモクラシーで徐々にいなくなり、完璧にいなくなったのが、(内村鑑三が亡くなる前までの)昭和初期でしょうか。そして、ゼロになった。あそこから日本も完璧なヨーロッパ的物質文明に突入していった。だいたい歴史的にも合っています。
―― そうですね。
●『ベラスケスのキリスト』を読むと「人間が持つ宇宙的使命」がわかってくる
執行 ウナムーノのこの本を読むと、みんなも「力強い」と感じると思います。ウナムーノは「肉と骨の人間」ということを言っています。キリスト教は肉体を捨てて、「魂の永遠」ということを言っていますが、ウナムーノは「嫌だ」と言うのです。「私は生身の人間だ」と。私が目指す永遠は、「肉と骨の人間が持つ永遠」と言っている。
―― すごいですね。
執行 すごいことです。
―― 肉と骨の……。
執行 肉と骨の人間が考える永遠を、何が何でも知りたい。その人間がキリストと葛藤して、一生かけてためていった詩が『ベラスケスのキリスト』なのです。
だから、私自身も肉と骨の人間です。武士道は肉と骨がなければできないから、やはりウナムーノとビシッと合うのです。それで非常にわかりやすいのです。
―― 一生かけて、ためていった詩なのですね。
執行 そうです。一生涯かけた。だからすごい長編詩になった。『ベラスケスのキリスト』が目指しているの...