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すべての道はローマに通ず――今も残るアッピア街道の軌跡

江戸とローマ~アッピア街道と東海道(1)ローマに通じる道

本村凌二
東京大学名誉教授/文学博士
情報・テキスト
アッピア街道
写真AC
「すべての道はローマに通ず」――手段や方法は違っていても、中心となる真実、あるいは真理は一つだということわざだが、実際、ローマ帝国の道はローマを起点につくられた。つまり、すべての道は「ローマに始まる」のである。軍隊派遣を目的に整備されたアッピア街道をはじめとする旧道の多くは、今もインフラの基盤となっている。(全3話中第1話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:12:06
収録日:2021/08/20
追加日:2023/07/05
≪全文≫

●軍事目的でつくられたローマの街道


―― 皆さま、こんにちは。本日は本村凌二先生の「江戸とローマ」の講義でございますが、今日のテーマは「権威に通じる道 アッピア街道と東海道五十三次」ということでございます。先生、どうぞよろしくお願いいたします。

本村 どうも、よろしく。

―― ローマというと、確かにアッピア街道を筆頭として、非常に街道が整備されたことが有名ですね。ローマの街道というのは、だいたいどのぐらいに、どのように整備されていったものなのでしょうか。

本村 街道が整備されるというのは、本来は軍事目的ですね。経済活動やそういうことよりも、とにかく軍事。だから、ローマはできるだけ(道を)まっすぐつくる。目的地に行くために、なるだけ障害なく、あるいは回り道をしないで、できるだけまっすぐ行く。そういう形でつくったものですから、当然それ以後の時代に使っても、一番近い道を行けるわけです。

 だけど、街道をつくるというのは非常に大変なことです。つまり味方であるローマの側からすればいいけれど、敵と戦っている敵が入ってきたときにも、一番ローマに迫ってこられやすいわけです。これは近代においても(同様で)、プロイセンなどでは、街道をつくって整備するかどうかについては二律背反的なものがある(と言われました)。つまり、自分たちにとっては確かにつくったほうが便利だけれども、敵が来たときにはそれがマイナスになる。

 ところが、ローマ人はそれを一切考えないで、自分たちの軍事的な目的のために、とにかく道路を整備する。それがやはり最初のローマ時代の共和政期の一つの道路のつくり方だったと思います。

 もちろん平和な時代になってくると、それだけではなく、商業交易活動、あるいは人の安全な旅行(や通行)の必要性が少し前面に出てきます。でも、本来においては軍事目的としてつくられたということで、そこはやはり日本などとは違うのではないか、江戸に東海道ができたようなときとは違うのではないかという気がします。


●30万キロにも達した「ローマからの道」


――ローマの場合、「すべての道はローマに通ず」という言葉もありますが、ローマが起点となって全部の街道が整備されていくことになるのでしょうか。そこは、どんな方向性の道なのですか。

本村 それは、最初は本当に必要なところに(通しています)。アッピア街道だって、やはり南のほうにローマの敵というか、そのとき対立している部族があったし、その先のイタリア半島南端部には、古くからギリシャ人もいるわけです。そういう勢力との争いのために、軍事目的で(道を)つくっていく。

 それ以後においても、やはりローマ軍をどこに派遣するか、どこに重点的に置くかというようなことを中心につくっていった。それが最初の発端だし、そのために石畳で舗装されているわけです。

 舗装されている道路として、アッピア街道が紀元前312年ぐらいにつくり始められて、それ以後のローマ帝国の中には、いわゆる舗装された街道だけで8万キロあります。舗装されていない、それほどきちんとした道路でないものも加えると、おそらく30万キロぐらいの道路があったのではないかといわれています。

―― ローマ帝国にとってその道がもたらしたもの、効用というのは、先ほど軍事のお話もございましたけれども、どういうものがあるのでしょうか。

本村 それは、最初はやはり軍事目的でした。平和な時代がやってくると、ローマが軍事力で周囲を制圧し、地中海を内海とするような、あれだけの世界帝国を打ち立てるわけです。

 そこでいわゆる「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」といわれる時代においては、もちろん軍人もいますが、軍隊のほとんどは辺境に移動していました。辺境にいるゲルマン民族なり部族民と戦うところへ行き、そこに駐屯しているという状態です。


●軍事拠点の内側で平和を謳歌した市民


本村 私は、ウィーンの郊外にあるカルヌントゥムというところ(へ行ったことがあります)。そこもやはり軍事拠点で、すぐ向こう側にライン川を控えています。その頃は、すでに敵と戦うためにローマ街道をバーっと直進する必要はなくなっていたことが分かります。

 カルヌントゥムで思い出すのは、有名なマルクス・アウレリウス帝が書いた『自省録』です。あれは、本当はカルヌントゥムで書いたのではないか。お読みになると、二巻の最後あたりに「カルヌントゥムにて」と書いてあります。そういう意味では、皆さんの身近な場所でもあるわけです。

 そういう帝国の時代になると、拠点が外側というか、国境沿いにできていく。だから、その内側においては、人々が物資を運んだり、旅行したりという形で交流が起こります。もちろんどんな時代にも山賊や海賊の脅威があって、かつては...
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