●村山談話と同日に出された『大東亜戦争の総括』
若宮 では、安倍晋三さんはなぜ、「侵略」という言葉にそんなにこだわるのだろうか。普通は今、かつての戦争、特に満洲事変以降のことについて、「侵略である」というのは、ほぼ常識だと思うのです。
実は、安倍さんだけではなく、この村山談話が出た時期とちょうど同じ頃に、このような談話に反発する激しい声が右派の方からありました。それに呼応して、自民党の中にそのようなグループができて、活動を始めたのです。代表的なものとしては、なんと村山談話が出たその日に、『大東亜戦争の総括』という本が出たのです。これはどのような本かというと、当時の自民党の中で、それに反発するような人たちがつくった歴史・検討委員会で、105人の国会議員が名を連ねて出した本でした。
中身は、その研究会が毎月のように講師を呼んで、講師の語った講演と質疑を載せたものです。講演をした人の中には、固有名詞は言いませんが、右派の名だたる論客がそろっていて、言っていることはさまざまですが、例えば、「大東亜戦争の目的は正しかった」「過去に対する謝罪をしてはならない」「南京大虐殺は虚構だ」というような話が並んでいます。中には、「社会党史観栄えて国滅ぶ」というタイトルの講演をした人もいます。これは、明らかに村山政権のことですね。
ところが、不思議なことに、その105人のメンバーの中には、時の村山政権の閣僚が3人も入っていたのです。橋本龍太郎さんは顧問で入っています。それから、平沼赳夫さん。それと、江藤隆美さんです。江藤さんは、後に問題発言をして更迭されるのですが、今申し上げたような方々は、村山談話にも署名をしています。ですから、同じ日に、非常に矛盾したことになってしまったのです。
●歴史・検討委員会発足は細川首相「侵略戦争」発言が契機
若宮 これは、その3人の閣僚が意図してやったことではありませんが、経緯があります。この会ができたのは、実は、細川政権の時なのです。村山さんの前に、細川内閣がありましたね。これは、非自民の連立でつくられた内閣で、社会党も入っていました。総理の細川護煕さんは社会党ではなく、もともと自民党の人ですが、非常にリベラルな人でした。
この政権をつくった時に、細川さんは記者会見で「かつての戦争についてどう思いますか」と聞かれ、「あれは侵略戦争であった」「間違った戦争であった」「そう認識している」と、明確に答えたのです。これは、彼が後に出版した日記を読んでも、自分は今日そう言った、ということを書いています。先の戦争とは何ぞや、という場合に、まず念頭に浮かぶのは、やはり中国との戦争、あるいは、朝鮮半島に対する侵攻であって、こういう国々に攻められたわけではなく、日本から打って出たのは間違いないのだから、「侵略か」と言われれば、「侵略」と言わざるを得ない、と明確に言っているのです。
―― あれは斬新でしたね。
若宮 ですから、アメリカとの戦争を侵略戦争と言っているわけではもちろんないけれども、しかし、中国や東南アジアに対しては侵略だったし、植民地支配という意味で侵略と言えば、戦争ではないけれど、韓国などについてもそう言える、という認識だったのです。
このことを、当時の右派の人たちが、「とんでもない」と判断したのです。当時は自民党の右派の人たちも野党でしたから、気軽だったわけで、「細川はけしからん」ということで結集したのが、この歴史・検討委員会というグループなのです。
『大東亜戦争の総括』という本の前書きに、このグループの会長だった、消費税で有名な、鹿児島の山中貞則さんがこのように書いています。
「この行動に出ざるを得なくなった直接の動機は、細川くんが総理になって、先の大戦を侵略戦争であったと公的に発言したことが引き金となったことは、否定できない」
そして、その後に「これでは、政府がせっかく8月15日に追悼式典をやっているのに、あたかもその追悼する相手に向かって、お前は侵略者だ、と言っているようなものではないか」と決め付けているのです。その気持ちは分からないではないけれども、論理の飛躍があり過ぎる話です。
いずれにしても、そのようなことでできた会ですから、主として、細川政権時代に始めたものの集大成が回り回って、出版段階になったら村山政権になっていたということなのです。
それから、その105人のメンバーも濃淡があって、本当に確信的に入っている人から、議員の会だからお付き合いで、というような人もいたのでしょう。橋本さんなどは遺族会の会長で、顧問として入りましたが、この出版にあまり深く関与したとは思えないので、気の毒な面はあります。そのようないきさつがあるのです。