●冷戦終結により訪れたのは「不安定な平和の時代」
冷戦は、ベルリンの壁が崩壊することによって、1989年に終結します。これは、共産主義対自由主義という戦いが、自由主義の勝利により、東西陣営のうちの片一方が倒れるということで、冷戦期当時の米ソという二つの大国、これを極と言いますが、いわゆる双極構造が解消され、世界的に一種の安定的な戦略環境が終わりを告げたのです。
すなわち、それまでわが国の安全保障を支えてきた、自国を守ること、周辺を安定させること、そして、世界の秩序を維持すること、という三つのレベルの同一性も同時に解消された、ということです。
当初、これで世界的に平和が訪れる、あるいは、フランシス・フクヤマ氏が言ったように、「歴史の終焉、すなわち、イデオロギーの闘争が終わったのだ。自由主義の勝利に終わったのだ」と世界中が浮かれる中で、実際に冷戦後に訪れた時代は、「不安定な平和の時代」でした。
●安保政策、防衛法制の問題が顕在化-第一段階は湾岸戦争
この時代において、わが国の安全保障政策と防衛法制は、冷戦期において潜在化していたさまざまな問題に直面し、情勢適応の原則に従って変化を遂げることとなりました。この変化は、同じく北岡伸一教授の分析を借りれば、三段階に区分できます。
第一段階は、1990年の湾岸危機、湾岸戦争によって始まりました。この事態は、日本にとって極めて重要な地域で、冷戦後の国際秩序に真っ向からの挑戦が生起したにもかかわらず、日本は資金提供以外さしたる役割を果たすことができませんでした。
私にとっては自分の経験なのですが、聞かれている方の中には、「もう完全に歴史の問題だな」と思っている方もおられるかと思いますので、少し細かく説明します。
冷戦下においては、ある種いろいろな宗教や従来からの民族、地域などの紛争が、エスカレーションしていくと、最終的に米ソの核の戦いになってしまうというところから、その全てが顕在化しないようになっていたわけなのですが、冷戦が終わりまして、そういったものがどんどん顕在化してくることになります。
その端緒となりましたのが、1990年8月、フセイン政権のイラクによる突然のクウェート侵攻です。1991年1月には多国籍軍が編成され、砂漠の嵐作戦が開始されました。いわゆる、湾岸戦争が勃発したのです。
●西側諸国の批判の的-時期を逸した日本の財政支援
冷戦後、冷戦の勝者となってまさに双極から一極となり、いわゆる、アメリカのヘゲモニー(覇権)が確立しました。「これから新しい秩序(ニューワールドオーダー)をつくる」と言っていた当時のアメリカにとって、このイラクがクウェートに突然侵攻したという事態は、許せるものではありませんでした。同じく、冷戦を戦ったいろいろな西側諸国にとっても、この暴挙は許せないということで、瞬く間に多国籍軍ができたのです。
これに対して、わが国政府の対応はと言いますと、イラク軍の侵攻から4週間後に至り、多国籍軍に対し10億ドルの財政支援。以後、外圧に押されて、30億、90億ドルと供出し、最終的には総額130億ドルの財政支援を実施しました。ざっと言うと、国民一人当たり1万円ですね。
しかし、これに対する米国を中心とする西側の反応は、非常に厳しく、“too little too late”と言われました。「小さすぎるし、遅すぎる」ということです。そして、「血と汗のない貢献」とも、「小切手外交」、いわゆる「札びらで片を付けるのか」とも言われたのです。
●海上自衛隊掃海部隊が遂行した見事な仕事と内外の反応
こうした国際社会の厳しい対応に、わが国も何かをしなければということで、辛うじて全ての戦闘が終了してから、反応します。
「多国籍軍はノルマンディのように上陸部隊が大挙して押し寄せてきて、イラクに侵攻するのではないか」という予測の下、ペルシャ湾にまいたイラクの機雷が大量に残っていました。実際にはそういった戦い方は行われず、非常に洗練された戦いであっという間に勝負がついたのですが、湾岸戦争後のイラクの復興、あるいはクウェートの復興、沿岸諸国の復興に極めて重大な影響を及ぼすということで、わが国は、ペルシャ湾に敷設されたイラクの機雷を除去するための海上自衛隊の掃海部隊を派遣したのです。
40度を超える熱暑の中、一番遅れて行きました海上自衛隊の掃海部隊には、すでに最も難しい、最も過酷なエリアしか残されていませんでした。「一発でも掃海できれば褒めてやるよ」くらいの感じで諸外国の軍隊が見守る中、見事に34個の機雷を処分しました。当時のいろいろな情勢では、遠隔で安全に処分することができないため、34個の機雷のうち27個については、ダイバーが直...