●「明らか」とは精通していることで、社会人の第一歩として非常に重要
『大学』の話に戻ります。
「大學の道は、明徳を明かにするに在り。」
「大學の道」、つまり、人間が真っ先に学ばなければいけない最大のポイントは、「明徳を明かにする」こと、すなわち、「徳」を明らかにするようにと言っているのです。
「明徳を明かにする」の「明か」は、何を表現しているか。江戸時代、精通している人のことを「あの人は計数に明るいね」、その反対の人のことを「あの人は外国事情に暗いね」と、明るい、暗いという言葉で表現しました。
そういう意味で、「明か」とは、精通していることで、もっと言えば、身の中にすでに入っていて忘れることができないほど修得されている状態を指しているのです。ですから、意識して「徳を振るうべきだ」と思わなくても、そういう人間になっていることが、実は、社会人の第一歩として、非常に重要なのです。
江戸期には、今で言う小学校一年生の年になった時、これを四書の最初の文章として徹底的に教わります。ただ、申し上げたように、家庭教育の段階ですでに教わっているものですから、さらにここで正式に文章として学ぶため、「明徳を明らかにすることが重要なんだな」と、子どもたちは感じるのです。
●「明徳」修得の次ステップ-多くの親愛関係を築き、「至善」の状態を感得する
そうするとどうなるか。こう続きます。
「民に親しむに在り。至善に止まるに在り。」
「民に親しむに在り」とは、いろいろな解釈がありますが、流れで言えば、これは、多くの方と親愛の関係になるという解釈でよろしいでしょう。
子どもが家を出て外へ行くと、いろいろなところから「遊ぼう」「こっちおいでよ」「これしよう」と多くの親友が声をかけてくれるので、「いいものだな。自分は一人ではない。多くの人と心を通わせることができている。こんな気持ちのいい満足感はないな」と思う。それが「至善」、善の至りです。「至善に止まるに在り」とは、そういう状態をつくづく感じることなのです。
たまに至善に行くのではありません。「止まる」と書いてあるのは、そういう至善の状態が自分の居るべきところだということで、それを子どもが感じ取るということです。
●徳を明らかにし、至善の状態に止まることを知って、人生の目標が定まる
文章はそこから次の言葉へと続いていきます。
「止まるを知りて后(のち)定まる有り。」
つまり、そうやって、「これこそが人間としてとても良いことだな」と思うのです。
良い学校に入り、良い就職先に入ることを第一の目的として生きる。そのことも大切でしょう。しかし、どんなに良い学校に入ったところで、どんなに良い会社に入ったところで、非常に利己主義で、自分中心で、誰の協力も得られず孤立しており、しかも人から嫌われる人間になっていたら、どうなるのか。そのことを子供心にも思うのです。
ですから、勉強に励んで良い学校に入ることも重要だけれども、ひょっとすると、徳をしっかりと身に付けることによって、多くの支援者や賛同者、仲間、あるいは、理解者を得ることが人生の目的かもしれない。これに励んだ方が良いかもしれない、と思うのです。これが、「止まるを知りて后定まる」ということです。何が定まるのか。人生の目標が定まるのです。
私も、小学校の教師の養成をずっとやってきました。小学校にはたびたび訪問して、小学生とお話をし、時にはお話の合間に講義もしましたが、小学生ほどの年の子どもは、存外、自分のこれから、あるいは、自分の人生を考えているものなのですね。したがって、子供心にも「これこそが人生の要諦だ」というものをどこかで感ずるのです。そして、「これに拍車を掛けて、現在3人の感謝の人間関係を10人にしよう。20人にしよう」「これさえ身に付けていれば、どういうところへ行っても親友に困ることはない」と思うのです。
●目標を掲げ、右往左往せず徳を積むことに励めば、心の安定感が得られる
「定まりて后能く静かなり。」
「静か」とは、右往左往しないことです。例えば、会社に入っても、これは本当に自分の望むべき職業だろうか、会社だろうかと、いつも現在の自分に対して飽き足らない思いで右往左往することは良くないという意味です。子供心にも目標が定まれば、右往左往せず、その道一直線で徳を積むことに励もうと思うのです。
「静かにして后能く安し。」
「安し」とは、この場合、安定感のことで、人間が安定するということでしょう。子どもの割に、ずいぶんと安定感のある子どもになるのです。江戸期のいろいろな子どもに関する文章を見ても、子どもが立派な文章を書いており、驚嘆すべきものがたくさんあります。こういう...