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君子は寡黙、おべんちゃらは言わない

『大学』に学ぶ江戸の人間教育(4)人格を磨くための「慎独」

田口佳史
東洋思想研究家
情報・テキスト
江戸期における幼年教育の体系の最初に位置した『大学』について、老荘思想研究者・田口佳史氏に手ほどきをお願いしてきた。次のキーワードは「慎独」である。「独りを慎む」とは、一体どういう意味で、どのような効果をもたらすのだろうか。(全5話中第4話目)
時間:12:08
収録日:2014/12/17
追加日:2015/08/06
≪全文≫

●皮膚の理解から髄の理解を促す「百字百回」の読書


  江戸期には、『大学』などの文章を、大体、「百字百回」で読みました。当時、人間の理解は4段階になっていると言われていたからです。

 まず皮膚の理解です。3、4回しか読まない間は「皮膚の理解」と呼ばれます。皮膚は短期間で生まれ変わりますから、短い命ということです。これを30回から40回読むと「肉の理解」に変わります。筋肉の細胞は生まれ変わるのに半年ほどかかりますから、半年の命ということです。そして、3番目・4番目が「骨の理解」「髄の理解」となっていきます。

 「骨の髄まで」とよく言いますが、「髄の理解」にするためには何といっても百回は読まなければいけない。百回繰り返し読んでいくことによって頭の中に文章が入ります。入ってしまうと、忘れられないものとして通常いつでも取り出せるのです。

 自分が何か少しうまくいかないことがあったり、困ったことがあったとき、教えがぱっと出てきます。「そうか。徳が足りなかったのだ。もっと励まなければ」と思い当たるのですが、頭の中にしっかりと入っていなければ、出てくる道理がありません。

 そういう意味で、基本的に江戸の教育の基本は、「教える」教育ではなく、「学ぶ」教育でした。学ぶ側が、「何を習得できたか」を確かめながら次へ進んでいくことが基本にありました。


●「自ら欺くなきなり」を重ねて、自信を積み上げる


 では、『大学』の次のもう1節、読んでみましょう。第二段第一節というところです。

 「所謂其の意を誠にするとは、自ら欺く毋(な)きなり。」

 これは大切なことを言っています。「自ら欺く」、すなわち、うそについての教えです。人間には知恵がありますから、どうしてもうそをつくことが習いとなります。ところが、そのうそは一体誰に一番効いているのか。他人に対してつくのがうそですが、効いてくるのは自分だということです。

 時に数回つくうそ自体に害はありません。しかし、人間は年を重ねていきます。10年20年、30年、40年とうそをつき続けていると、やがて自分の中のもう一人の自分が「お前、うそつきだな。お前のようなうそつきは他にいないぞ」と言ってくる。つまり、自己不信に陥ってくるわけです。

 自己不信の反対は「自ら信ずる」と書きます。これは、読みようによっては「自信」となります。要するに、自分に対してだけではなく、他人に対しても「うそを言わない」ことが、年を取れば取るほど自信に満ちあふれた人間になるための方法であるということです。

 「自ら欺く毋きなり」は、その意味で非常に重要です。うそをついているうちに、何が真実か分からなくなってきてしまう人も出てきます。非常に恐い話でもあるのです。


●君子が寡黙になってしまう理由


 「惡臭を惡(にく)むが如く、好色を好むが如くす、此を之れ自ら謙(こころよ)くすと謂ふ。」

 つまり、誰だって「嫌なことは嫌」ですから、感じたままに言えばよい。色のいいものを好むのは自然ですから、そうなら「好きだ」と言えばよい。そのように、心で思った状態を率直に言葉に出す。そのことが、「此を之れ自ら謙くすと謂ふ」ことなのです。

 このように申し上げると、「そんなに言いたい放題、自分の思いどおりに言うのは、無礼千万になりはしませんか」と、よく反論を頂きます。

 したがって、君子は寡黙なのです。あまり、おべんちゃらを言いません。無理をして称賛したり褒めたりすることは、かえって自分を悪くしてしまいます。寡黙は非常に重要であるということを表しているのです。


●「小人閑居して不善を為す」は、なぜ戒められるのか


 「故に君子は必ず其の獨 (ひとり)を愼むなり。」

 「獨を愼む」、すなわち、「慎独」こそ、江戸期における自己鍛錬の最大の要点となります。

 「慎独」とはどういうことか。次の文章が、それを表しています。

 「小人は閒居しては、不善を爲すこと至らざる所無し。」

 つまり、それほど立派でない人間は、一人でいるときにはよく、いろいろとよからぬこと(不善)をしているというのです。これは、悪事の意味ばかりに限りません。人に見せられないような姿勢や態度なども含めて言っています。しかし、それだけで罪になるわけではありません。

 「君子を見て、而る后 厭然として其の不善を揜(おほ)ひて其の善を著はさんとす。」

 君子、すなわち、それなりの人物がその場に入ってくると、がらりと態度を変えて、何もなかったかのように、「いや、そんなことはしていませんよ」と言い、自分の不善を覆い隠す。そして「其の善を著はさんとす」というのです。

 これもうその一つと言えます。そういうことが何十年と積み重なってくると、自分の中のもう一人の自分に「うそ...
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