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DATE/ 2025.03.25

『ユダヤ人の歴史』に学ぶ3000年の「組み合わせの軌跡」

 ユダヤ人と聞いて、皆さんはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。たとえば、アインシュタインやロスチャイルド家のように、学問や金融の分野で成功した人々を思い浮かべるかもしれません。あるいは、アンネ・フランクのように、過酷な運命をたどった人々の姿や迫害の歴史を感じる人もいるでしょう。ユダヤ人は紀元前から何世紀にもわたってさまざまな影響を及ぼしながら、世界中のあらゆる地域で生き抜いてきました。

 そうしたユダヤ人たちの歴史はどのようなものだったのでしょうか。一般的な描かれ方としては、旧約聖書に登場する古代イスラエルの民、ローマ帝国による離散(ディアスポラ)、20世紀のホロコースト、そしてイスラエル建国による独立といった流れで語られることが多いでしょう。しかし、その間にある中世から近代にかけてのユダヤ人の歴史はあまり語られることがなく、歴史の教科書でもほとんど触れられていません。

 今回ご紹介する『ユダヤ人の歴史 古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎著、中公新書)では、こうした空白を埋めて、ユダヤ人の歩みを3000年のスケールで描いた貴重な一冊です。通史としての構成をとりつつ、世界史やユダヤ教に関する予備知識がなくても理解できるように書かれており、現代世界を読み解くうえで欠かせないユダヤ人の歴史が学べる最適な入門書といえるでしょう。

「組み合わせ」からユダヤ人の歴史を捉える

 著者の鶴見太郎氏は、1982年生まれ、岐阜県飛騨市出身の研究者です。専門はロシア・東欧ユダヤ史で、東京大学で学位を取得後、エルサレム・ヘブライ大学やニューヨーク大学で客員研究員を務めました。現在は、東京大学大学院総合文化研究科の准教授として研究・教育に従事しています。これまでの業績は高く評価されており、第1回東京大学南原繁記念出版賞、第12回日本社会学会奨励賞、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞など、数々の賞を受賞しています。主な著書に『ロシア・シオニズムの想像力』(東京大学出版会)があります。

 鶴見氏がユダヤ人の歴史を描くうえで重視しているのが「組み合わせ」という視点です。鶴見氏によれば、歴史とはさまざまな要素が組み合わさりながら展開していくものであり、ユダヤ人もまた、多様なものと結びつくなかで自らも変容し、周囲に影響を与えてきたといいます。重要なのは、ユダヤ人が何と組み合わさり、どのようにして自らを「カスタマイズ」していったのか、ということです。

 こうした視点からユダヤ人の歴史を捉えることで、『ヴェニスの商人』に登場するユダヤ人の金貸しシャイロックや、ホロコーストといった通俗的なイメージから一歩踏み込んだ理解が得られるのです。

中世のユダヤ人の9割はイスラーム世界で暮らしていた

 現代の国際政治のイメージから考えると、ユダヤ教徒とイスラーム教徒は対立関係にあると見なされがちです。両者は犬猿の仲であるかのような印象がありますが、歴史をひもといてみると、必ずしもそのような単純な敵対関係にあったわけではないことがわかります。とりわけ中世において、ユダヤ人はイスラーム世界との「組み合わせ」をうまく築くことで、むしろ繁栄の時期を迎えていたのです。

 実際、7世紀から13世紀までのあいだ、世界のユダヤ人の約9割がイスラーム諸国で暮らしていました。これは、単に追放されたからそこにいたというよりも、むしろその社会に適応し、共存の道を見いだしたからできたことです。ユダヤ人たちは常に歴史のなかでマイノリティとして存在してきました。目立つ差異を持ちながら自集団を維持するためには、周囲の多数派と対立するのではなく、ともに生きるための「組み合わせ」を見つけ出すことが不可欠でした。譲れない部分は堅持しつつ、それ以外の点では柔軟に変化し、環境に適応する。こうした戦略は、中世イスラーム世界のなかで特に顕著に見られます。

 この時代、ユダヤ教にとっても重要な転換点が訪れます。現在まで続くユダヤ教の標準形態であるラビ・ユダヤ教が整備され、信仰の枠組みが確立されていったのです。そして、その信仰の核を支えるのが、ユダヤ教が持つ「法」に基づく生活の体系でした。実はこの点で、ユダヤ教とイスラーム教は共通点を持っています。どちらも、日常生活の隅々まで法が規定する宗教であり、信仰が単なる内面的な信条ではなく、具体的な生活実践と深く結びついているのです。

マイノリティとして生き抜く方法――共存のしくみ

 イスラーム世界では、非ムスリムに対してジズヤ(人頭税)を課すかわりに、一定の自治を認めるという仕組みが整備されました。これは、征服された民を一律に排除するのではなく、それぞれの宗教共同体が独自の法に基づいて生活することを許容する体制です。これが、ユダヤ人にとっては「ユダヤ人として存在し続ける」ための余地となりました。さらに、イスラーム社会は、決して単一の法に基づく統治ではありませんでした。スンナ派とシーア派の宗派的な違い、さらにはそれぞれのなかにおける法学派の分派など、複数のシャリーア(イスラーム法)が共存していたのです。

 このような多元性が存在するイスラーム社会のなかで、ユダヤ教もまたひとつの「法治共同体」として確固たる地位を築いていきました。宗教と法、そして生活の融合という共通点が、両者のあいだに共栄関係をもたらしたのです。中世イスラーム世界のなかでユダヤ人が生き抜き、学問や行政などの分野で活躍していたことは、このような構造なしには語れません。歴史のなかで何と「組み合わさるか」によって、ユダヤ人の姿は大きく形を変えてきたのです。

 現代の世界に目を向けると、ガザやヨルダン川西岸での衝突や犠牲といった悲惨な光景が繰り返されています。イスラエルとパレスチナの対立は、しばしば「ユダヤ人とイスラーム教徒の対立」として捉えられがちです。ですが、本書が描き出すユダヤ人の歴史をたどると、かつて両者が共存し、共栄関係を築いていた時代が確かに存在したことがわかります。

 現在の状況が決して唯一のあり方だったわけではないという視点を持つことは、問題を理解し、未来を考えるうえでも重要です。混迷する現代の国際情勢を捉える手がかりとして、本書からユダヤ人の歴史に目を向けてみてはいかがでしょうか。

<参考文献>
『ユダヤ人の歴史 古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(鶴見太郎著、中公新書)
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2025/01/102839.html

<参考サイト>
鶴見太郎氏のX(旧Twitter)
https://x.com/taro_tsurumi

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