●宗派によって異なる政教分離の実態
―― もう1つ、著書『権力』の中で印象深いのが、やはり今の議論ですね。というのが、基本的にはアメリカ、あるいはイギリスなどでの主流の話であって、同じ一神教の世界では、例えばプロテスタントとカトリックでは違うし、いわゆる正教会とも違いがあるというようなご指摘なのですけれど、やはり、今ずっとお聞きしてきたのは、基本的にはアメリカ合衆国での論理ということになるのでしょうか。
橋爪 イングランドもだいたい同じです。カルヴァン派の影響力がイングランド、スコットランドではとても強いですから。フランスは少し別なのですけれど、哲学の影響が強いから、だいたい同じです。ドイツはルター派なので、少しカルヴァン派ではないけれど、似たようなものです。つまり西ヨーロッパという地域は、おおむねこの論理で納得しているわけです。
さて、カトリックのほうはどうなっているかというと、教会が国をまたがって世界に1つしかないという原則でできているのです。こういうものを「普遍主義」「普遍(的)教会」といいますけれど、そういう教会があって、しかも個別の政治権力があります。個別の政治権力は、教会が認めるというスタイルでしたから、近代になってもカトリック系の国ではそういう考え方が抜けていないのです。ですから、契約によってこの国を守り、人権を守るのだという意識が希薄です。教会がそれに代わって、イエスの代理人として人々を守っているという意識がどこかにあるからです。そうすると、政教分離がうまくいきません。
東のビザンチン教会、ギリシャ正教会のほうは、カトリックよりももっとカルヴァン派のやり方から遠いのです。どうしてかというと、東ローマ帝国がずっと最後まで残っていて、15世紀にやっと壊れてしまいました。それまで教会と政治権力は二人三脚で、ほぼベッタリでやってきたので、教会と政治が“なあなあ”の関係にあるのです。これが東の伝統です。
ですから、ロシア正教会があるとすると、ロシア皇帝と“なあなあ”の関係になっていて、それからソビエト連邦があると、共産党とソ連の政府が、“なあなあ”の関係になっている。“なあなあ”の関係になっていると、誰かが良心に基づいて、「これはおかしい。この教会の考え方はおかしい」と言うと、政治犯になって、捕まって、処分されてしまうから、宗教改革も起こらない。良...