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岩倉使節団欧米視察中に成し遂げた西郷隆盛の功績

西郷南洲のリーダーシップ(2)『西郷南洲翁遺訓』を読む

田口佳史
東洋思想研究家
情報・テキスト
岩倉使節団の留守を預かった西郷南洲(隆盛)は、旧制度の問題を一気に解決しようとした。その決断の源を知る手掛かりが、西郷が遺した『西郷南洲翁遺訓』にある。東洋的リーダーシップを語ることは西郷を語ることでもあると言う老荘思想研究者・田口佳史氏が、『西郷南洲翁遺訓』から西郷の思想に迫る。(第2話目)
時間:12:47
収録日:2015/02/27
追加日:2015/08/31
≪全文≫

●短期間で近代国家建設を進めた明治新政府


 明治政府は、近代国家を一刻も早くつくらなければいけないということを課題としていました。そこで明治維新の新政府の状態を一つ一つ調べていくと、あることに気付いて驚きました。それは、明治4、5年から明治6年にかけて発布ないし施行されたさまざまな法令が極めて多いことで、そこにぎょっとするわけです。

 なぜこの期間だけ、矢継ぎ早にいろいろなことが行われたのでしょうか。例えば、最後の幕藩体制を徹底的に無にする廃藩置県や、武士という階級の廃止を明確にするための廃刀の許可(刀を差して歩かなければいけないというルールを解除し自由にしたこと)、藩からの給料を廃止する秩禄処分などです。明治維新といっても、風景は江戸時代と全く変わらず、各藩のお城があってそこに藩主が居て、冠婚葬祭でも皆、刀を差して昔のままに行い、そして給料をもらうという状態が続いていれば、何も変わっていないことになり、明治の「御一新」は全く感じられないわけです。こういったものに早く対処しなければいけなかったのですが、なかなか進みませんでした。そこで、先ほどの対策をこの期間に全部行ったのです。

 さらに言えば、幕府側の人材、すなわち大名を許してしまうわけです。昔は敵として戦ったけれど、今日では日本という国家を支える人材を一人でも多く活用しなければならないということで、例えば榎本武揚や山岡鉄舟といった幕臣をどんどん登用します。そこで、朝敵の大名に対する大赦を大胆不敵にも行うわけです。


●岩倉使節団の訪欧中に留守を預かり大改革


 さらに国立銀行条例の制定、学制(学校制度)の発布、電信・鉄道開業、徴兵令や地租改正条例の布告、太陰暦から太陽暦への変更、職業選択・信教の自由の許可、人身売買の禁止など、言わば自由・平等という民主主義国家建設に絶対的に不可欠な要素を次から次へとつくっていきます。つまり、その支障になるような旧態依然とした制度やあり方を全て整理し、きれいにしたところで、自由で平等な民主国家をつくっていったのです。

 なぜこの期間だったのか。岩倉具視を団長に、大久保利通、伊藤博文といった幕閣の錚々(そうそう)たるメンバーからなる岩倉使節団が、明治4年11月12日に日本を出発し、明治6年9月13日に欧米から帰国したのですが、この1年10カ月の間、使節団のメンバー全員が日本を留守にします。百聞は一見に如かずということで、実際に欧米を見て回ったのですが、この派遣は大胆不敵なものでした。結果的に、その後の政府の体制は、非常にスムーズに展開します。つまり、その時の見聞が生かされたわけですから、これはこれで非常に良かったのですが、留守中、政府の筆頭参議は誰だったのかといえば、西郷南洲(隆盛)でした。

 使節団は、何をしてしまうか分からない西郷に、人事的なものなどには絶対いじらないように一筆書かせ、安心して出かけていきました。ところが、帰ってみたらこうなっていたので、彼らはびっくり仰天します。これが、大久保と西郷の仲を悪くする一つの原因だということになっています。別の観点からこれを見ると、もしこの間に西郷南洲ではなく、ただの留守番役が居ただけであれば、旧態依然とした制度は全部残っているわけですから、その後に大きな困難が伴ったと思うのですね。それが全て一気に解決し、新しいものをつくったわけですから、いってみれば国民に夢と希望を与えた西郷の功績は大きいと思います。随分と買いかぶっているという見方もあるでしょうが、リーダーシップ論として西郷を見ていくと、こうした大胆不敵な決断も、リーダーとしては非常に重要なのではないかと思います。


●『西郷南洲翁遺訓』に残る西郷の思想


 こういったことを挙げて、問題解決能力があり、皆に安心感と夢と希望を与えるというリーダーシップの定義を語っているうちに、なんとなく西郷南洲を語っているような状況になってしまいます。しからば西郷南洲という人は、一体どうして、あるいはどうやってこうしたリーダーシップを身に付けたのだろうか。そのことが、非常に気になるところです。

 まず、西郷南洲の思想、あるいは考え方はどういうものであったか。非常に乱暴ですがごくごく簡単に言うと、『西郷南洲翁遺訓』にそれが残っています。これは、西郷南洲の考え方をわれわれが直接知ることのできる資料として、なかなか貴重なものだと思います。

 第一番「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。」

 「廟堂に立ちて」、つまり国会に立って、国家の大政を行うということは、天の道を進む、すなわち天に代わってやっていることだ、という意識を持って行わなければ、うまくいくものではない。したがって、そこには、少しといえども...
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