●儒家のリーダーシップを体現した五人
さてここから、儒家思想のリーダーシップ論をわが国の幕末の志士たちはどのように自己の力として活用し、自分を高めていったか、お話ししていきましょう。ここで取り上げるべき優秀なリーダーはたくさんいますが、これまでにお話ししたリーダーの今日的な基底として、「問題解決能力を持っている」こと、そして「無類の優しさをもって国民を理解し、夢と希望を与える」という点から、リーダーを厳しく見ていくと、私見に過ぎませんが、日本の歴史上では五人しかいないと、私は思うわけです。
一人目は聖徳太子です。聖徳太子は、『日本書紀』がつくった架空の人物という説もありますので、あえて注意深く言えば、厩戸皇子のことですね。
次は天武天皇です。歴史家の間でのコンセンサス(同意)が取れているのは、天武天皇が天皇という称号をつくったことです。以前の称号は大王(おおきみ)でした。その大王が天皇に変わり、日本が倭の国から「日本」に変わったのは天武朝であるということは、歴史家のコンセンサスが取れていることです。つまり、今日、われわれが何気なく使っている日本の根幹を定めたのは、天武天皇なのです。
中国古典の儒家の思想、特に『易経』を徹底的に読んでみると分かりますが、持統天皇の『易経』の知識、あるいはその理解にはすさまじいものがありました。そういう意味では、いま言ったようなことは、全て持統天皇の知恵として天武天皇に伝わったのではないかと思います。また、中国から持ってきた律令制度を日本で完璧なものにしました。それが飛鳥浄御原宮令です。それによって律令国家にし、称号を天皇号にし、国号を日本にして、伊勢神宮の格を大きく上げて日本のシンボリックな神様にします。さらに、中国には司馬遷の史記がありますので、わが国も『日本書紀』という史記をまとめました。これらのほとんどが対中戦略だと思いますが、すごみのある戦略をしっかりとつくっていったということです。そういった業績には、計り知れないものがあり、そういう意味で天武天皇・持統天皇を取り上げたいと思います。
次は北条泰時です。ご承知のように、泰時の父・北条義時の代に起こった承久の乱は、それまでの迷信の影響もあり、多くの日本人が描いていた天皇像、要するに絶対的権力者で歯向かってはならない存在としての天皇に対して異議を唱え、さらに天皇側を打ち負かすという、非常に革命的な出来事でした。その後、北条泰時は御成敗式目を定めます。これがやがて、江戸になると関東御成敗式目になり、武家諸法度になります。このように、武家法というものをしっかりつくり、その後の日本の特性を非常に鮮明にする鎌倉武士道を導いた人として、北条泰時を挙げざるを得ません。
次は徳川家康で、異論のないところでしょう。
その次は意見の分かれるところです。私は、西郷南洲(隆盛)という人を挙げざるを得ないのではないかと思います。西郷南洲を挙げたのは、これまでにお話しした「放勳欽明」「文思安安」が理由です。「放勳欽明」「文思安安」が何を意味したかというと、腕っ節は誰よりも強く、問題解決能力があり、業績も挙げるが、無類の優しさもあるということです。その人に出会うと、3日会えば3日の愛が生じ、10日会えば10日の愛が生ずるというように、誰しもがほれ込む優しさが出てくるのです。西郷南洲は寡黙な人でしたから、ただ座っているだけなのですが、その存在が多くの人に希望を与え、夢を与え、決定を促進していく説得力を持っていました。言ってみれば、東洋的リーダーシップの権化のような要素があったわけです。そういう観点から、現代の日本人であるわれわれに一番近い存在として、西郷南洲を考えてみたいと思ったわけです。
●内憂外患の中、問題解決に尽力した西郷
ご承知のように、明治維新は内憂外患の状態でした。内憂としては幕藩体制が転換を要求されていました。外患としては、西洋列強の支配に対する危機感がひしひしと迫ってきていましたので、そこから何としても逃れて独立を堅持しなければなりません。こういう内憂外患を片手にしながら、もう一方の片手では、すばやく近代国家を建設しなければいけないという、誰が考えてもそんなことを一挙にはできないのではないかと思うような難題を、当時の人は抱えていたのです。
まず内憂から考えて、幕藩体制の転換を図らなければならなりませんでした。これは、口で言うのは簡単ですが、何といっても幕府は300年近く堅持されたものすごい体制なので、これに対して異議を唱え、新たな体制をつくることは、並大抵のことではありませんでした。そこにおける薩長同盟の役割は、とても大きいと私は思います。
薩長同盟は1866年ですが、もしこれがなかったならば、いまだに...