●パリの悲劇に対抗するパラダイム転換は起こり得るか
皆さん、こんにちは。
私は、この間起こったパリの大虐殺という今回の悲劇について、グローバルに考えれば「新しいポストモダンの世界戦争」ともいうべきものが、国家対国家という形ではなく、むしろ非国家主体、あるいは文化的な装いを持ったような集団の中で起こっていると述べました。テロリストたちは、イスラムの過激派を名乗り、自らの行為を正当化していますが、まじめなイスラム教徒たちから見ると、彼らにイスラムを名乗ってほしくないというのが本心ではないかと思います。
このような事態に直面した今は、新しいものの考え方が必要になるはずです。しかし、危険極まりないISに対して、自分たちを新しい知的なパラダイムで武装し、世界を率いて指導しようという政治家やトップリーダーたちが少ないというのも現実です。
現在の欧米諸国は、むしろ自国の安全や自国民の所得や福祉についてのみケアする国々がほとんどになりつつあります。このことも、今回のような事件の背景にあるのではないでしょうか。西欧諸国の市民たち(タックスペイヤー、納税者)の間では、自分の支払った税金が他国や他国民のために使われることに難色を示し、難民や移民に金を費やすのを望まないという風潮が出てきているからです。
●政治哲学や世界観を欠いた米欧のトップリーダーたち
こうした傾向ないし潮流に最もフィットしているのが、バラク・オバマ大統領やアンゲラ・メルケル首相のような政治家たちなのでしょう。しかしながら、超大国、あるいは責任ある大国のリーダーとして彼らを評価するならば、例えばオバマ大統領の場合、グローバルに記憶されるほどのまじめな遺産や業績をつくったとは言い難いのではないかと思います。なぜかノーベル平和賞が、まったく根拠不明であまりにも早過ぎるタイミングにおいて与えられたことも、記憶には新しいところです。
オバマ大統領のような政治家は、経済・技術・テクノロジーなどを結び付けたり、それらに依拠したリーダーとしては最適の人物なのでしょう。しかし、かつてのウッドロウ・ウィルソンの国際平和主義やフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策といった、世界史を変えていくような哲学的政治には、程遠いところがあります。
メルケル首相にしても、かつてのコンラート・アデナウアーやヴィリー・ブラント、ヘルムート・コールといった人物と比べると、その政治手法はすこぶるプラグマティックであり、自国中心主義、自国民中心主義的な見方がうかがわれるように思えてなりません。
●イスラム世界の危機が生んだ「新ポスト世界戦争」
しかし、イスラム世界の危機はもっと深いといってよいかと思います。イスラム世界は、西欧が開発した技術や工学を移入せざるを得ず、それを基礎にしたものの考え方も導入していますが、それらを総体としてイスラム世界の中で生かすことには、必ずしも成功しておりません。
むしろそこから生まれた鬼っ子が、アルカイダやISのようなニヒリスティック(虚無的)な世界観や生活観を持つ若者たちだといえるでしょう。彼らは現状に対するフラストレーションや不満、偽善から、さまざまな衝動に駆られ、人との対決のみならず、無辜の民、彼ら自身が直接に被害を受けたわけでもなければ生活を破壊されたわけでもない人々にも向けられます。今回のフランス市民たちもそうですが、アルジェリアやマグレブのイスラム教徒たちも同様で、そうした人たちを犠牲者に仕立て上げていくおぞましさです。そのような新しいポストモダンの世界戦争のあり方に対して、私たちはゆっくり着実に分析し、質問をさらに深めていかなければなりません。
●「敵の敵は味方」といえないシリア情勢の変化
質問とは、この新しいポストモダン世界戦争が、過去の二つの世界大戦のような、通常型の世界レベルの戦争に転化するのか否かということです。言い換えれば、新ポストモダン世界戦争のまま、個人レベルまでテロや暴力の被害が直接に及ぶ形が長期にわたって推移するのか。あるいは国家を絡めたすこぶる重要な世界大戦、まさに第3次世界大戦に変化し発展するのだろうか。この点については、少し注意深く考えていかなければならないかと思います。
こうしたことを占う上で重要なのは、やはりシリア情勢の分析ですが、そこでは理解できないことがたくさん起きています。何よりもまずシリア情勢は、「反IS」や「反イスラム過激主義」で対抗していくという一本の軸だけでは動いていないからです。「反アサド」という、もう一つの軸があります。そして、「反アサド」で名指されるバッシャール・アル・アサド大統領その人がISの敵であることが、米欧、アメリカやEU諸国のスタンスを奇妙なことにして...