●水問題は複雑ゆえ市民運動は根付きにくい
大上 前回、「水と災害」の話を伺いましたが、今回は、実際に水の危機に陥った際にどのように考えるべきか、「水と危機」について伺いたいと思います。その前に、先生は「水の七不思議」という、非常に面白いことをおっしゃっていますので、その話からお願いします。
沖 水の危機に限らない話ですが、科学的、合理的な判断だけでなく、感情的な判断について考えておく必要があります。頭では分かっていても行動に結び付かないこと、あるいは頭では役に立たないと知っているのに行動してしまうことがあり、そのことを知る方がむしろ大事ではないかと思わせる事例が多いのです。
例えば、アフリカやインドで水が足りなくて困っている人が居ると聞くと、節水しなくては、と思いがちです。しかし、冷静に考えると、たとえ沖縄で水が足りなくなったとしても、北海道で節水した分が沖縄で使えるわけではありません。これが水問題の難しい点なのです。これに比べると地球温暖化の問題はある意味簡単で、自分が省エネすれば地球温暖化の解決にほんのわずかでも貢献できます。しかし、水問題の解決に何か貢献したいと思っても、実はできることはそれほどないのです。
大上 ないのですね。
沖 ところが、市民運動に慣れていると、「できることから始めよう」という話になります。ただ、その際、自分が無力であるという問題はなかったことにしたいのです。ですから、水問題は案外複雑で、このようなアクションを取ればよいということがはっきりしているわけではないので、市民運動として根付かないのではないかと僕は思っています。
●化石水を取り巻く不思議な話に根拠はない
大上 資料には「七不思議」として、他にもいろいろなことを書いていらっしゃいます。例えば、「化石燃料より化石水が許せない」というのがありますね。
沖 化石水とは昔、気候が湿潤だった時代などにたまった地下水のことです。今はもう地上からの水の浸透がないので増えず、くみ上げた分だけ減っていきます。この化石水に依存した農業が、アメリカ中西部・ロッキー山脈のすぐ東側、パキスタンとインドの国境付近、中国の北部など、世界の幾つかの地域で行われています。この話を聞くと、水が無くなってしまうと大変だから、非循環型の化石水の利用を規制しようと皆さんおっしゃるのです。
考えてみると、使う分だけ減っていく石油、石炭、ウランなどの使用によって現在の世界の繁栄があるわけですから、それなら化石燃料などの使用もやめようという話をしなくてはならないはずです。しかし、そのことは横に置いておいて、化石水の使用だけは駄目だと主張してしまうところが、僕は面白いと思うのです。
大上 「古い地下水ほど良質だという気になる」という不思議もありました。
沖 例えば、富士山の裾野から何十年前の雨が深く浸透して出てきた水と、300年前の地下水とを比べると、300年前の水の方がよさそうに思えませんか。
大上 何となくよさそうに思いますね。
沖 ですが、実はそれには何の根拠もありません。たまっている時間が長いほどミネラル含有量は増えますが、ミネラル含有量の多い方がおいしいかどうかは個人の味覚によります。カルシウムなどがあまりに多いとおなかを壊してしまいますから、多ければよいとは限りません。しかし、それでも人は古い地下水ほどよいと感じてしまうのです。これも面白い点です。
●半乾燥地での植林には逆効果の可能性
大上 では、そのような感情面に配慮しながら、水の危機に対応するときの論点を幾つか挙げていただけますか。
沖 一番は、やはり水ビジネスです。前回もお話しした通り、水は他の地域に運べないローカルな財ですから、どうしても自分たちのものという愛着が湧き、たとえ余剰があっても他に分けることに対し、けちになりがちです。例えば、今は無くなりましたが、以前、首都圏で本当に水が足りなくなった時期に、新潟の川の水を大清水から抜いて関東側に持って来ようという話があったのですが、こういった流域外輸送は地域の人々にものすごく嫌われます。実は、東京23区は多摩川も利根川もほぼ流域外で、長年周辺地域に頭を下げながら水をもらっている状況です。取水には、いつもそういった配慮が必要となります。
それから、木を植えれば水が増えるのではないかとつい思ってしまいますが、これはおそらく因果関係と相関関係の混同による誤謬です。木を植えれば水が増えるのではなく、水があるところに木が生えるのです。実際、半乾燥地に行くと、斜面の北側や谷筋などに木が少しだけ生えています。そこで、半乾燥地の木が生えていないところに、乾燥に強いポプラなどを植えると、下手をすると深いところまで根付き、せっかくの地下水をく...