●都市木造は生活スタイルと社会システムにつれて
都市木造で何を目指すのかというと、今の時代の生活スタイルと社会システムに適した建築です。しかし、建築物は建てられてから50年ぐらいは建ち続けますから、少しは将来を見据えたものを提案しようとしたのが、東京・表参道の街並が木造ビルに変わればどうなるか、というCGです。
これは5年前につくったものですが、あまり良い出来ではありません。当時、ヨーロッパの建築系雑誌の編集者が興味を持ってくれたので送ったところ、「どこが木造なんだ?」と言われました。確かにそこが難しい問題です。木造のビルなど誰も見たことがないですから、まだ木造らしさが分からず、「ただ柱を茶色く塗ってあるだけじゃないのか」と言われてしまいます。
こうしたものは「歴史的にない」と言いましたが、実は1900年代のある時期には瞬間的に存在しました。1950年に「建築基準法」の出る前、1919年に「市街地建築物法」が出ています。その前のわずかな期間、江戸期から明治期に入り、1919年になるまでの間だけ、実はこういう建物ができたのです。
なぜできたのかというと、社会システムの変化があったからです。江戸時代の家内制工業から大量生産の時代になってくれば、倉庫や工場などの大きい建築が必要になる。それまでももちろん酒蔵など大きな建築はありましたが、大体は平屋建てだったのです。
●消滅した木造ビル文化の成長をシミュレートする
右上の写真は群馬県館林市に建った製粉工場です。製粉工場では、不純物をなくすのに高い所から粉を落としますので、高い建物が必要です。それを木造で造りました。左上は岩手県小岩井農場の中にある4階建ての倉庫です。右側のものは壊されましたが、こちらはまだ見ることができます。そして、左下は福島県須賀川にある繭の乾燥倉庫です。さらに、近代教育が導入されて、寺子屋から学校が必要になったために、右下のような学校の校舎が生まれます。
要は、社会システムが変わり、新しい用途の建築が必要になったためにそれを木で造ってみようということになった。よく分からないけど造ってみたという点では、先ほどの竪穴式住居と同じです。この頃はまだ技術が未熟で、あまり木造らしくないですね。
この技術をいかに洗練させていって楽しい町にするかという構想があったはずなのですが、1919年に出た法律のため、それができなくなります。唯一残ったのが、学校建築です。木造校舎はこれ以後100年近く造り続けられ、ちょっと面白い建築が生まれるようになりました。
なくなってしまったビルの方の文化を、都市でもう一度やらなければいけないと考えています。立ち消えになった文化が成長していたら、本来はどうなっていたかを予測するのです。竪穴式住居から町家までは2000年かかりましたが、とてもこれから2000年かけての成熟は待っていられません。しかし、木造校舎は100年で頑張れた。そうであれば数十年、10年か20年ぐらいで、新しい技術から魅力的なものへ持っていきたいという話です。
●2000年代木造ビルの短い歴史-1
2000年に建築基準法が変わり、2005年に最初の木造ビルである「金沢エムビル」ができました。1階がRC造で上4層が木造ですが、写真では全く木造には見えません。しかし、技術とはそういうものなので、まずはできたということです。さらに2007年には2例目として「丸美産業本社ビル」という名古屋の材木屋さんのオフィスビルができます。
2010年ぐらいまでは、この話をするときに「2000年に建築基準法が変わり、2005年に1例、2007年に2例目。さて、このペースでいくと、いつになると10例目ができるのですかね?」というように言っていましたが、ちょうどその頃に状況が劇的に変わりました。最初にお話しした「公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律」のおかげか、われわれ「team Timberize」の活動の成果なのかは分かりませんが、2010年以降の施工例は急激に増えるのです。
埼玉県春日部市に「東部地域振興ふれあい拠点施設」という6階建ての建物。下4層はホールなので鉄骨造ですが、上2層はパスポートセンター、会議室、健康診断施設といった小さい部屋がたくさん入るので、そこを木造にすることにしました。また神奈川県横浜市には「サウスウッド」という4階建ての大型商業施設が建てられます。
一見ただの3階建て木造に見えて結構画期的だったのが、東京都文京区、椿山荘の隣にできた「オトノハカフェ」です。これは、防火地域(※3階建て以上や100平米を超える建物は「耐火建築物」にしなければならないという規定がある)にあるため、その条件を木造3階建てでクリアす...