●1990年代に急増した南米外国人
次にこれまでの経過を振り返り、浜松市における外国人市民の状況、そして多文化共生への取り組み内容についてお話します。
今から30年ほど前の1980年代後半、日本はいわゆるバブル景気と言われた、経済過熱状態にありました。そうした中、労働力不足を背景に1990年改正入管法が施行され、日系人の2世3世およびその家族が「定住者」の在留資格により、国内で自由に就労することが可能となりました。その結果、浜松市のように輸送用機器などの製造業が盛んな地域において、南米日系人が急増しました。
現在、浜松市には2万1千人の外国人が居住していますが、今でも日本で最も多くのブラジル人が居住する都市となっています。このように、短期の「デカセギ」のつもりで入国させた外国人が、長期にわたって滞在することとなりました。
●外国人住民の急増で生じた数々の問題
外国人人口の推移をご覧ください。1988年には28人に過ぎなかったブラジル人が、10年後の1998年には1万人を超え、不況期の中でも増加が続き、さらに10年後の2008年には、2万人に迫るほどになりました。しかし、この年の秋に発生したリーマンショックをきっかけにブラジル人の人口は減少に転じ、現在では8,500人程度で落ち着いています。一方で、フィリピンやベトナムなど、アジア諸国からの外国人が少しずつ増えており、国籍も多様化する状況です。
1990年代より南米外国人が急増した当初のような「デカセギ」が変化し、外国人市民の滞在長期化・定住化が進むにつれ、言葉や生活習慣、文化等の違いが原因で、さまざまな摩擦や課題が顕在化してきました。
例えば日本語が理解できなかったり、話せなかったりするために意思疎通が図れず、コミュニケーション不足に陥るという言語の問題があります。また、保険や年金といった日本の社会保障制度について充分理解されないため、未加入のまま過ごしてしまうという問題などが発生しました。また、派遣・請負など間接雇用で働いている人が多いため、景気が悪化すると仕事を失ってしまうなど、雇用が不安定であるという問題もあります。外国人の子どもについては、就学の義務がないため、かつては外国人の子どもの「不就学」という問題が生じていました。
2012(平成24)年7月まであった外国人登録制度は、転出届がなく、短期滞在で一時的に日本に滞在する場合も登録されていたため、既に帰国して居住実態がないにもかかわらず、登録されたまま放置され、登録内容と居住実態が乖離している状況が数多く発生していました。ただし、住民基本台帳に移行されてからは、市外に転出する場合の「転出届」が必要となるなど、以前よりも正確な外国人の居住実態の把握が可能になりました。
また地域で生活していく中で、「ゴミ出し」、「騒音」、「駐車場」など、生活習慣や文化の違いが原因となるトラブルも起こりました。このように文化、生活習慣の違い、言語、教育、社会保障など、様々な問題が発生し、現場を預かる基礎自治体である私たちは、いや応なくその対応を迫られました。こうした課題解決への取り組みが始まって、四半世紀、25年以上が経過しました。ここからは、私たちがどのように課題を克服し、共生社会を築いていったかについて、お話をしていきます。
●外国人の子どもの不就学問題
はじめに、最も重要なテーマである、外国人の子どもの教育課題についてご紹介します。先ほども紹介したように、日本では外国人が日本に定住することを想定していないため、外国人の子どもには法的な就学義務がありません。これが一番大きな問題です。
外国人は、派遣などの間接雇用が多く雇用が不安定であり、保護者自身が将来の見通しを立てにくいため、子どもの就学問題を先送りにするケースが起こります。また保護者は日本語が話せず、母国語のみを使用するため、子どもは公立学校では日本語を使用し、家庭では母国語を使用することとなります。そのため、母国語と日本語の両言語がどちらも十分に身に付いていない、いわゆる「ダブルリミテッド」と呼ばれる子どもたちも生まれました。このような状況から、生活をする上で困らない程度の日常的な日本語能力は身に付けていても、学力に結びつく学習言語を身に付けていない子どもたちが多く出現しました。
●多文化共生に向けた行政サービスの改革
外国人の子どもの教育の問題をはじめ、外国人との共生に関わる課題や問題の解決に向けて、本市では、外国人市民は地域社会や地域経済の担い手であり、まちづくりを進める重要なパートナーであるという方針の下、様々な多文化共生施策を実施してきました。
まず行政内部においては、円滑な行政サービスの提供を図るため、住民登録、税金、福祉、教育委員会などの窓口に、出先機関を...