●多くが不明なキリストの前半生
次に少し項目を変えて、イエスが一体何を目指していたのかについてお話しします。
最初に述べたように、彼の「イエス」という名は、ユダヤ人の間では珍しいものではありませんでした。そしてその意味は「主は救い」です。正確には「アドナイ」という言葉が使われていますが、「神」という言葉で置き換えてもいいと思います。「神は救い」あるいは「神は救う方である」という表現でもいいと思います。もう一方の「キリスト」というのは、人名ではなく、「油を注がれた者」です。ヘブライ語で「メシア」です。ヘンデル作曲の有名な「メサイア」に連なる言葉で、それのギリシャ語です。
イエスの生涯は短く、およそ33年くらいだろうと思いますが、その彼が赤ちゃんとして生まれ、そして30歳くらいになるまでの間、彼の生活がどういうものであったかについて、私たちはほとんど知りません。聖書の中にもそういう記述はありません。彼が生まれたクリスマスの物語はありますが、唯一の例外として12歳の時に神殿に詣でたという話があります。しかしそのくらいであって、30年間の素朴な生活についての資料はないのです。
そして30歳になった辺りに、彼は弟子たちを集めます。有名な12人の弟子を集めて、活動を始めます。彼の始めた活動のことを「公生活」といいます。「パブリック・ライフ」です。それ以前、30歳になる前のことは、私的な生活ですから「プライベート・ライフ」と表現することもあります。彼がその公生活を始めた時のことについて、マルコの福音書1章の言葉には、こういう表現があります。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
これが、イエスの公生活における最初の言葉であると、マルコは記しています。
●キリストの到来は、充実した時の現われ
福音書について簡単に説明します。新約聖書を開くと、最初に四つの福音書が出てきます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。その後「使徒言行録」があり、その後「ローマ人への手紙」をはじめとして、たくさんの手紙が書かれていきます。ほとんどがパウロという人が書いた手紙です。
新約聖書の中でも、特に最初の四つの福音書がとても大事だと言われています。なぜならその福音書には、イエスがどういう言葉を語ったかという語録、そして彼がどういう行いをしたかという記録が記されているからです。
福音書の「福」は幸福の「福」ですね。「音(いん)」は音と書きます。すなわち福音とは、「幸せのメッセージ」で「手紙」という意味です。英語だとgood news、「良き知らせ」です。その中のマルコの1節をもう一度申し上げます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、これがイエスの公生活における最初の言葉でした。
「時が満ちる」とは一体どういうことか。後でまた詳しく述べることがあるかと思いますが、「終末」というやや難しい言葉があります。「終わる」に「末」と書きますが、元は「エスカトン」という言葉です。イエスは公生活を始めて、やがて十字架につけられて亡くなります。もしそこでイエスが亡くなっただけならば、キリスト教は生まれませんでした。なぜなら、イエスが亡くなった後、不思議な出来事が起きたからです。どういう出来事が起きたか。「イエスは今も生きている」と、彼の弟子たちがそういうことを語り始めます。なぜかと言うと、「イエスが復活した」という事実があり、その復活したイエスに出会ってしまった弟子たちが現にいたからです。そこからキリスト教が始まります。
復活したイエスは、その後しばらくまた弟子たちとともに生活をしますが、また去っていきます。これを「天に昇る」と言い、「昇天」という字を当てます。その際、イエスは一つの約束をしました。「わたしはまた戻って来る」と。「またわたしは戻って来る」、これを「イエスの再臨」と言います。そしてその時に、「この世は完成する」と理解されています。これも「終末」として考えていいと思います。
「時が満ちる」とは、その時を含みます。イエスという一人の存在がこの世に与えられたことで、ある意味で決定的な時の充実があると考えていいと思います。単なる量的な時間の流れとしての時ではなく、決定的な意味内容を持った時、充実した時です。
ギリシャ語で言うと、「カイロス」という言葉に当たります。ギリシャ語の「クロノス」という言葉は、いわゆる量的な時間を指します。例えば「1分が60秒である」とか「1時間が60分である」とか「1日が24時間である」という場合の時です。誰が考えても、誰が計っても、これは客観的なものとして理解できる時間です。
しかし私たち人間が時の体験をする際には、もう一つの体験があります。例えば自分にとって大切な人、好...