この講義シリーズは第2話まで
登録不要で無料視聴できます!
キリスト教とは何か~愛と赦しといのち
聖書から読み解く…キリスト教の「愛」とは赦すこと
キリスト教とは何か~愛と赦しといのち(5)「赦す」とはどういうことか
哲学と生き方
竹内修一(上智大学神学部教授/カトリック司祭(イエズス会))
愛とは何か。それは「赦し」である。しかし上智大学神学部教授・竹内修一氏は、この「赦し」は「水に流す」ことではないと強調する。さらに愛とは、「平和」であり「沈黙」であるとも言われる。キリスト教の愛は、さまざまな言葉で言い換えられながら、その本質を露わにしていく。(全6話中第5話)
時間:15分00秒
収録日:2016年12月26日
追加日:2017年3月28日
収録日:2016年12月26日
追加日:2017年3月28日
≪全文≫
●愛とは他人を「赦す」ことだ
キリスト教の語る愛については、他のところにもいろいろありますので、もう1点だけ紹介します。「コロサイ人への手紙」というものがあります。「コロサイ人への手紙」3章12節からの引用です。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。まず愛されているから、このようなことを身に着けることができると語ります。つまり、愛が原点になっているということですね。そして、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、と言いますから、なければ当たり前です。仮にそういうことがあったとしても、例えば相手が間違っていて自分が正しかったとしても、相手を赦しなさい。こういう言葉が、ここでスッと書かれます。
少なくとも、このコロサイの箇所では、愛の意味内容は「赦す」という言葉に置き換えられていると思います。ただ注意しなければいけないのは、聖書における「赦し」という言葉は、「水に流す」とは全く違うということです。たとえ良いことであっても悪いことであっても、私たちが何か具体的な行為をした場合、その行為を消すことはできません。もし間違ったことをしたとするならば、そのときにはやはり謝罪や反省が必要だろうと思...
●愛とは他人を「赦す」ことだ
キリスト教の語る愛については、他のところにもいろいろありますので、もう1点だけ紹介します。「コロサイ人への手紙」というものがあります。「コロサイ人への手紙」3章12節からの引用です。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。まず愛されているから、このようなことを身に着けることができると語ります。つまり、愛が原点になっているということですね。そして、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、と言いますから、なければ当たり前です。仮にそういうことがあったとしても、例えば相手が間違っていて自分が正しかったとしても、相手を赦しなさい。こういう言葉が、ここでスッと書かれます。
少なくとも、このコロサイの箇所では、愛の意味内容は「赦す」という言葉に置き換えられていると思います。ただ注意しなければいけないのは、聖書における「赦し」という言葉は、「水に流す」とは全く違うということです。たとえ良いことであっても悪いことであっても、私たちが何か具体的な行為をした場合、その行為を消すことはできません。もし間違ったことをしたとするならば、そのときにはやはり謝罪や反省が必要だろうと思...
「哲学と生き方」でまず見るべき講義シリーズ
人気の講義ランキングTOP10
ヒトは共同保育の動物――生物学からみた子育ての基礎知識
長谷川眞理子
著者が語る!『『江戸名所図会』と浮世絵で歩く東京』
テンミニッツ・アカデミー編集部