●愛とは他人を「赦す」ことだ
キリスト教の語る愛については、他のところにもいろいろありますので、もう1点だけ紹介します。「コロサイ人への手紙」というものがあります。「コロサイ人への手紙」3章12節からの引用です。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。まず愛されているから、このようなことを身に着けることができると語ります。つまり、愛が原点になっているということですね。そして、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、と言いますから、なければ当たり前です。仮にそういうことがあったとしても、例えば相手が間違っていて自分が正しかったとしても、相手を赦しなさい。こういう言葉が、ここでスッと書かれます。
少なくとも、このコロサイの箇所では、愛の意味内容は「赦す」という言葉に置き換えられていると思います。ただ注意しなければいけないのは、聖書における「赦し」という言葉は、「水に流す」とは全く違うということです。たとえ良いことであっても悪いことであっても、私たちが何か具体的な行為をした場合、その行為を消すことはできません。もし間違ったことをしたとするならば、そのときにはやはり謝罪や反省が必要だろうと思います。そして、自分がきちんと反省して、過ちを認めてそれを告げたその後で、相手が赦してくれるとするならば、私たちがするべきことはその償いだろうと思います。ですから「赦し」と言っても、決して水に流していいことではないと思います。人を傷つけた時に、それを水に流すのは、やはり良くないことでしょう。
●キリストの愛は「平和」につながる
聖書は、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。なぜならば愛は、すべてを完成させるきずなだ」と語ります。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」。ここでの愛という言葉は、「赦し」という言葉に置き換えられ、そして「愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずな」だとして、また愛が語られます。
例えば私たちは、普段いろいろな服を着ます。それと同じように、「愛を身に着ける」という表現がなされています。そして、愛を身に着けた人は一体どういう人になるのだろうかということについて、静かに思いをはせていいと思います。愛を身に着けている、愛を生きようとしている人は、具体的にどのように生活をしているのだろうかということです。
同時に、ここで「平和」という言葉が出てきます。キリスト教の語る愛という言葉は、平和という言葉にもつながっていることも、押さえておきましょう。そこで、平和について紹介しましょう。ヨハネの福音書20章19節からの引用です。ここは、イエスが復活した後、弟子たちの前に現れる場面です。そこは、次のように語られています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。
●「平和」とは、神と共にあること
イエスが殺された後のことですか...