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キリスト教が教える「愛」とは

キリスト教とは何か~愛と赦しといのち(3)キリスト教の愛とはどんなものか

竹内修一
上智大学神学部教授/カトリック司祭(イエズス会)
情報・テキスト
上智大学神学部教授・竹内修一氏は、キリスト教でいう「愛」とは決して抽象的なものではなく、具体的な行為で示されるものだという。その典型は、「最後の晩餐」でイエスが弟子たちの「足を洗う」ことだ。それは当時の文脈で何を意味し、そうすることでイエスは弟子に何を伝えようとしたのか。キリスト教の真髄が見えてくる。(全6話中第3話)
時間:10:20
収録日:2016/12/26
追加日:2017/03/14
カテゴリー:
≪全文≫

●愛は具体的な形となって意味を持つ


 それでは、キリスト教の愛とは一体何を意味するかについて、簡単に説明したいと思います。自分自身の経験でもありますが、中学生か高校生の時、何かの教科書を見ていたら「キリスト教は愛の宗教である」という1行がありました。その言葉自体、私は間違ってはいないと思いますが、愛という言葉は、ある意味ではとても抽象的な言葉です。

 私たちが現実に送る素朴な生活では、愛には具体的な、様々な形があるだろうと思います。愛が、見える形で生活の中で立ち表れるときには、いろいろな表れ方があっていいだろうと思います。その形は一つしかないというわけではなく、むしろいろいろな表れ方があることが、愛の深さや広がりを示すだろうと思います。

 その愛について、また聖書を参考にしながら一緒に考えてみたいと思います。たった今述べたように、愛は必ず具体的な形あるいは行為によって表されるものだと思います。その典型的な一つを、イエスが「最後の晩餐」の際に、その場にいた弟子たちの足を洗った行為に見ることができます。その箇所は、ヨハネの福音書13章です。

 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


●なぜイエスは、弟子の足を洗ったのか


 この足を洗う行為にどういう意味があるか。当時の社会で「足を洗う」のは奴隷の仕事でした。しかも、奴隷の中でも最も低い地位にある奴隷の仕事でした。最後の晩餐の時は、イエスがもう間もなく捕まって殺される、そういう夜ですが、その時に「最後にあなた方ともう一度食事がしたい」と言うのですね。そしてその際、彼らが普段食べている素朴な食料である、パンとぶどう酒を用意しました。

 そしてイエスが語ります。「わたしは去っていけれども、心配しなくてもいい。この日常生活の食事の中に、私は現存する。いつまでもあなた方と共にいる」。こういうことを示し、「これを私の記念として行いなさい」といって、パンとぶどう酒を特別なものに変えます。後に、「聖変化」という言葉が使われます。これが、有名な絵にもある「最後の晩餐」です。これは、共観福音書、すなわちマタイ、マルコ、ルカ...
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