●クラッススの最期
クラッススは、いろいろなエピソードを残しました。先ほどお金儲けには手段を選ばなかったと言いましたが、ある種の潔いところもあった人物です。パルティアとの戦いでは、最終段階でわなにかかっていることに気付いていたというのです。
敵は和平交渉を持ちかけてくるのですが、クラッススはそれをわなだと見抜いていました。しかし、それに乗らなければ、戦争は終結しないかもしれません。そのため、彼はある種の決断をもって交渉の場に向かいます。わなに陥った彼は敵に捕まりますが、「自分(クラッスス)は命が惜しかったわけではないことを、お前たちは覚えておいてくれ」と自らの兵士たちに告げます。そのような思いを託すため、彼はあえてパルティアの仕組んだわなと知りつつ向かったのだといわれています。
そうした形でクラッススが亡くなった後、ポンペイウスとカエサルの両派が対立します。最初この3人はうまくやっていましたし、カエサルはポンペイウスという人物を個人的には非常に好きで人物としても買っていたのですが、クラッススの死に重ねて次のような不幸な事態も起こります。
●ローマ史に不幸をもたらしたユリアの死
ある時期からやもめ暮らしを続けていたポンペイウスのところへ、カエサルは自分の娘ユリアを嫁がせたのです。この結婚は非常にうまくいき、ポンペイウスは若いユリアにぞっこんで軍人として使い物にならないと噂されるぐらい、二人の仲は良好でした。
ところが、不幸なことに、ユリアが子どもを出産するときに亡くなってしまったのです。これは、ローマ史全体を考える上でも、非常に大きな不幸だったと私は思います。もし、あのときにユリアが亡くならず無事に子どもを出産していたら、その後、ローマ史上にとって大きなエピソードである「ポンペイウスとカエサルの対立」も起こらなかったのではないかと思われるからです。
そうはいっても、民衆派と閥族派の対立はもちろんずっと続いていました。当時の民衆派のリーダーはカエサルで、ポンペイウスは閥族派の人々に担ぎ上げられる形でもう一度閥族派のリーダーに返り咲いたのです。ですから、ユリアが死ななければ、おそらく別の人が担ぎ出されたのではないかとも思われるのですが、不幸なことにユリアが亡くなってしまったため、二人の対立はだんだん顕在化していきます。
●緊張状態の中、ルビコンを越えるカエサル
やがて両者の対立、ないしは民衆派と閥族派の対立が非常に大きな問題になってくる中で、カエサルは大きな決断を下します。
ガリアでの戦いに大きな勝利を収めて帰ってきたカエサルは、武装解除の問題に直面します。敵地で戦闘している間の軍隊の武装を、イタリアに入るときには解除しなければなりませんでした。これは大原則であり、イタリア国内に入るときにはローマの軍人であっても、武装した形では入れません。では、イタリアはどこから始まるか。それが有名なルビコン(川)です。
「賽(さい)は投げられた」とカエサルはこのときに言います。ルビコンを渡れば、その向こう側のイタリア国内には敵対する閥族派の連中が待ち構えています。彼らは、戦勝を収めて帰ってくるカエサルの勢力がどこまで膨らむのかと戦々恐々としているはずです。それが、カエサルには目に見えるようでした。
だから、彼は武装を解かないままルビコンを越えることを決断するのです。これは、国の法律に違反するため、彼が国賊になってしまうことを意味しています。ですから、彼は大変な覚悟をして、ルビコンを越えていくのです。
●ポンペイウスの死とカエサルの君臨
カエサルが率いる民衆派の軍隊とポンペイウスが率いる閥族派の軍隊の対立は、その後1~2年の間続くことになります。やがてカエサルはポンペイウス派をどんどん追い詰めていき、追われたポンペイウスがエジプトに逃れていくことになります。
逃れて行った先のエジプトにはプトレマイオス家という、後にクレオパトラが出てくる王家があります。この家を頼っていくと、家臣団の長に当たる男が、ポンペイウスを出迎えに行くふりをして殺してしまいます。エジプト側からも全体の形勢が分かっていたので、そうすればカエサルに気に入られるだろうと思っての所業でした。
ところが、カエサルにしてみるとそれは違いました。大きな対立の中でポンペイウスと戦わざるを得なかったけれども、彼は先に述べたように、個人的にはポンペイウスを非常に気に入っていたのです。だから、エジプトに到着した時にポンペイウスが殺されたと知って、彼は非常に嘆き悲しみました。
おそらくカエサルは、ポンペイウスの政治的な権力は何らかの形で剥奪するにしても、個人としてはきっと生かしてやりたいという気持ちが非常に強かったはずです。それが...