●「なぜハチ公の物語に感動するのか」を哲学的に考える
私が今日お話しするのは、なぜ人々は、犬が人を慕い続けるというこの種の物語に無条件で感動してしまうのか、ということです。犬という動物の全部にあてはまることではないのですが、実はハチだけではなく、一部にはこういう行動をとる犬がいるといういくつかの例で報告されているのです。
なぜ、このように感動してしまうのか。これはもちろん、いろいろなアプローチの仕方があると思います。生物学的、犬学的にアプローチするということもあると思うのですが、私は今日は、少し哲学的に考えてみようかと思います。全部の犬についてではありません。私の犬などはそういうことは全然できないような犬だったので、ハチは素晴らしいなと思ってしまうのですが。でも、そういうできない犬もかわいいと思うところが、犬の魅力なのかもしれません。
●人と犬の関係の根底には「本質的な何か」がある
1つには、ハチの持つ忠誠心のようなものをその理由としているということもありますし、あるいは犬という動物の無垢(むく)な在り方ですね。それから、死者を思い続ける切なさに人々は打たれてしまうのだろうとか、あるいは上野博士との深い絆に打たれてしまうなど、いろいろなことが感動する理由として考えられます。
このパネルにもあるようにスコットランドにボビーという、ハチと同様にご主人が亡くなった後、ご主人の墓の周りに常にいた、10年ぐらいいたという犬がいて、やはり銅像になっています。ボビーの話は、確か19世紀のことなのでハチよりもずっと前の話なのですが、これと似たような例は実は世界のいろいろなところにあるのです。一部にはこういう行動をとる犬がいるということです。
私は、ここには人と犬、犬と人との関係の根底にある「本質的な何か」が顕在化しているからではないか、だから人々は大いに感動するのではないかと思っているのです。それを今日はお話ししようと思います。
●基本的前提-犬自身に考え方を聞くことはできない
こういうことを犬について語るとき、基本的な前提をまず押さえておかなければいけません。これは当たり前のことですが、犬自身に考え方を聞くわけにはいかないのです。
犬の飼育や気持ちについての見解については、いろいろと巷に出回っていますが、それは蓋然(がいぜん)的なものであって絶対の根拠を持ち得ないものです。なぜかというと犬自身に考え方を聞くわけにはいかないからです。
例えば、犬はリーダーが決まっていた方が落ち着くなどということがよく言われます。実は私も複数の多頭飼いをしていたので、どちらが上でどちらが劣位かということがあるのではないかとは思っていましたが、これとて別に絶対の根拠があるわけではありません。あるいは、尻尾をぶりぶり振るのはうれしい証拠であるとも言いますし、私も経験上そうだろうなとは思います。ですが、本当にそうなのかという証拠はないですね。また、耳を寝かせるのは警戒している証拠だ、ということもそうです。ただ、主人に飛び付いて耳を寝かせている時は、逆に喜びの極致だ、などという見方もあります。
などなど、いろいろ犬の性質についての記述はたくさんあって、私も経験上そうだろうと認識していますが、絶対の根拠があるとは思えません。
●3モデルで人と犬の関係における2つの問題を解きほぐす
したがって、人と犬の関係、犬と人の関係がどのようなものであるかという問題に対しては、ある種の「物語性」が必ず付きまとうと言えます。言い方を換えれば、何らかのモデル、仮説として記述するしかないわけです。今日はそのいくつかのモデル、少々先取りして言えば3つのモデルを考えて、それを対比しながらお話をしようと思います。
ここでは上野博士とハチの関係に象徴される人と犬の関係を主題に据えているので、ペットとして、あるいはアニマルコンパニオンとして、人と犬、犬と人が共に暮らしているという事態をどう物語るか。さらには、「なぜ人々はハチ公物語に感動するのか」という2つの問題を解きほぐしていきたいと思います。
●人と犬の関係を物語る第1のモデル-退廃モデル
以下、しばしば論じられる物語り方、あるいはモデルをまず2つ、そして最後に私自身の物語り方を提案してみたいと思います。
第1のモデルは何かというと、ディープ・エコロジストとして著名なポール・シェパードに代表される物語り方です。これはどういうことかいうと、ペットと人の関係に対する「退廃モデル」と私は呼んでいます。簡単に言えば、愛玩動物として犬などのペットと暮らすことが道徳的に推奨されない、マイナスの価値しかないという物語り方です。「えっ、それはどういうことなんだ?」と思う人がいるかもしれませんが、シェパ...