●10倍もの兵力差をくつがえして袁紹を倒した曹操
こんにちは。早稲田大学文学学術院の渡邉義浩です。今日は曹操の革新性というテーマで、三国時代の曹操がどのような形で台頭したのか、ということについてお話ししたいと思います。
まず三国志年表を見ていただき、今日の講義の中心部分をお話しします。後漢が黄巾の乱で弱体化して、その後、董卓という独裁者が出てきましたが、その董卓を破っていった反董卓連合の中心となったのが、四代にわたって総理大臣を出した名門の家柄の袁紹という人です。
普通の歴史の流れならば(もっとも「ならば」「たらば」ということは、歴史家としては言ってはいけないことになっていますが)、袁紹が中国を統一していくということになると思います。ところが、時代を変えていく男・曹操が出てきて、200年の「官渡の戦い」で袁紹を破っていくことになります。
三国時代の戦いというと、赤壁の戦いが非常に有名なのですが、実は決定的に重要なのはこの官渡の戦いの方なのです。兵力差が袁紹10に対して曹操1であると、陳寿は『三国志』の中に記しています。10倍もの兵力差を覆していった曹操とはどういう人であるのか。そのことを今日はお話しさせていただこうと思います。
●祖父・曹騰の作りあげた財力、人脈を手にした曹操
曹操という人は宦官出身です。宦官というのは宮中のハーレムに仕える男性機能を失ってしまった男性のことで卑しい身分なのですが、皇帝の非常に身近なところで暮らしているので、権力を握れる位置にあるのです。具体的には曹操の祖父に曹騰という宦官がいるのですが、その曹騰の時代に、曹操が活躍する基本となっていくための、非常にたくさんの財力と人脈を用意することになります。そして、曹騰がつくった人脈の中で非常に重要なのが西北列将です。後漢の戦いは涼州というところで異民族と戦うわけですが、そこに戦いに行く人々を「西北列将」と呼びました。この人々と曹操の祖父は非常に仲が良かったのです。
ですから、これは推測ではありますが、曹操の幼少期には西北列将が戦いから帰って、曹騰のところに来て、「こんな戦いだった」ということを説明します。曹操はそういう話を聞きながら育っている可能性があります。涼州兵の中に、戦いの中心的な役割を果たしたダンケイ(段・ヒの下に火、横に頁)という人がいて、涼州兵の戦いの基本をつくったのですが、そのダンケイの戦い方が曹操の戦い方、戦略の基本となっているのです。
●文武両道の手本・橋玄を目標に努力した曹操
中国では武官と文官というものをはっきり分けないのです。また、ゲームの影響でしょうか。武官というと、よく腕っぷしの非常に太い人をイメージしますが、そのような人はそんなにいなくても構いません。諸葛亮も司馬懿も万を超える兵力を動かしていく場合は、武力よりもむしろ頭の力が重要なのです。中国では「出でては将、入りては相」と言って、外に出かけては将軍となり、中に入っては宰相となっていくという文武両道を取るというのが、普通の姿なのです。
この西北列将の中で文武両道で最も有名な人が橋玄(キョウゲン)という人です。その橋玄の先生であるチュウコウ(禾に中・日の下に高)という人が、曹操の祖父である曹騰の恩顧を受けている、つまり橋玄は曹騰系の人脈の人なのです。橋玄が、実は曹操の政治的なモデルとなっている人で、曹操が行っていく法に基づく非常に厳しい支配は、橋玄がすでにやっているものだったのです。また、まだ全く世に出ていなかった曹操という人物を非常に高く評価し、そしてそれを許劭(キョショウ)という人に紹介して、許劭から「乱世の奸雄」であるという人物評価を受けさせたのも橋玄なのです。
そのように、曹操はいきなり出てきた天才ではなく、むしろ祖父の代につくり上げられた人脈によって、自分の目標である橋玄を高みにおいて、そこに近づこうと努力していった、そのような人だと考えられるのではないでしょうか。
●戦う姿で名士を味方にし、革新性を打ちだしていく
その曹操は、最初は反董卓連合の後、出遅れます。なぜ出遅れたのかというと、董卓が非常に強力であったので、袁紹をはじめとして皆、直接董卓と戦うことを避けたのです。避けているうちに、董卓が長安の方に逃げ込んで行きます。それで董卓に勝ったことになっているわけではありますが、漢のために集まっていながら董卓と戦わないとなると、儒教は漢を最も重要な国家だと考えているので、儒教を身に付けた名士たちにとって漢のために戦わないということは、非常に許しがたいことであったのです。
そのような中で、曹操だけは董卓と激しく戦いました。そして、敗れていくわけなのですが、その戦った姿を見て、すぐにテイイク(程・日の下に立)、やがては...