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中世に終止符を打った徳川家康の政策

家康が築いたTOKYO(1)日本の近代化とリーダーシップ

山内昌之
東京大学名誉教授
情報・テキスト
歴史学者・山内昌之氏が、現代の今も影響を与えている徳川家康の都市構想、政治力学的発想による政策や外交戦略について解説するシリーズレクチャー。江戸は家康の入府から1世紀ほどで世界屈指の行政都市、消費都市に成長した。そこには、家康の優れた都市構想、東アジアを視野に入れた地政学的発想があった。(全3話中第1話)
時間:10:46
収録日:2018/04/03
追加日:2018/05/15
≪全文≫

●江戸幕府の経営によって世界有数の大都会に成長


 皆さん、こんにちは。

 最近、今上陛下のご退位ならびに次期天皇のご即位のことがしばしばテレビや新聞紙上で話題になっています。現在の天皇陛下は、2019(平成31)年4月30日に退位されるご予定です。新天皇、つまり現在の皇太子殿下のご即位は翌5月1日となりました。生前の譲位は江戸末期の光格天皇以来、およそ200年ぶりのことです。2020年の東京オリンピックは、新天皇の下で迎えることとなります。すなわち、前の東京オリンピックの例に倣うのならば、2020年のオリンピックの開会宣言は新しい天皇の下で行われる可能性が強いかと思います。今回の平和の祭典は、日本の新たな国民統合の象徴の姿を首都東京から世界に向けて発信する、こよなき機会になると思います。

 ところで、2020年オリンピックの年は、私たちの歴史にとっても大変興味深い年に当たります。つまり、東京の前身、江戸に徳川家康が入った1590年から430年に当たるからです。「八朔」という行事がありますが、これは1590年8月1日に家康が江戸に入府したことにちなんでいます。8月1日(朔日)を略して「八朔」と呼ぶのです。当時の江戸は戸数も少なく、人家もまばらであったにもかかわらず、江戸幕府の経営によって1世紀ほどのうちに100万人の人口を擁する大都会に成長しました。ほぼ同じ時代のロンドンの人口は46万人です。また、19世紀初めのパリでも55万人にすぎませんでした。いかに行政の中枢である江戸が大きな町であったかが分かります。


●江戸を中心とした「一つの国家」を構築


 しかも、これは巨大な消費都市でもありました。行政都市にして、かつ消費都市でもあった江戸は、埋め立てや上水道、下水道、ひいては公衆浴場、すなわち風呂屋、あるいは公衆便所、公衆の共同高架、こうしたことの整備を含めて家康の都市計画と土木工事の見事さによって、後に現在につながるメトロポリス東京となる基盤がつくられたといえるでしょう。

 家康の江戸城は明治維新後、そのまま皇居となりました。4世紀を経ても現在の日本の首都の中心にある緑地として、心のやすらぎを都民、そして国民に与えています。家康は江戸を中心とした幕藩制国家、もう少し正確にいうと、幕府と藩が複合して成り立っている「一つの国家」を築き、日本という国の一体性を工夫しながら創り上げた功労者といえると思います。


●中世に終止符、近代への準備を整えた家康の政策


 家康は武家の権力として、天皇の権力と権威が対立せずに幕府による政治の支配の正統性(レディティマシー)を確立しました。言ってみれば、このおよそ3世紀にわたる「将軍の世紀」は、民主的に選ばれる現在の日本政府と象徴天皇制との関係を考える上で、現代人にも大変大きな参考になるというのが私の考えです。270年間も戦争のない安定した国家と統治機構を創り上げ、「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」によって、応仁の乱をはじめとする戦乱や無秩序を招いた中世のカオスに終止符を打ったのも家康ということになります。それのみならず、民間社会の成熟と列島の均質化、ホモジニアスな平らかさを進めたのも家康に他なりません。

 また、江戸周辺の農民の年貢は北条五代の支配以来、低かったのですが、この伝統を受け継いで低率の税制をそのまま堅持しました。その結果として、江戸周辺の農民からは家内制手工業が生まれ、それを農村から醗酵させることによって、実は外国から産業革命が到来する以前に早期近代化、早期産業化(early industrialization)、あるいは原産業化、すなわちproto- industrializationとでもいうべきものを創り上げていくことになりました。

 こうした日本自前のindustrialization(インダストリアライゼーション、産業化)の原初形態というものは、その後の近代の産業革命の対応を静かに準備したといえるでしょう。すなわち、こうした近代日本の工業化を準備した日本の近世は、家康のリーダーシップなしには出現しなかったのではないか、と私には思えてなりません。

 

●「好運」を生かしつつ地政学的に発想


 リーダーには運の強さも欠かせません。家康は、豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役においても、朝鮮半島に軍事力を率いて出かけることはありませんでした。このために武将として不義の戦い(正義の欠如した大義名分のない戦い)で血塗られずに、自ら、そして朝鮮の人々の血を流さずに済んだといえます。家康のこうした好運がその後、生きてきます。それは修交や交渉の絶えた朝鮮や中国・明との関係を少しでも正常化に近づけ、朝鮮通信使の来日や長崎における唐船、すなわち中国の船の到来による貿易を可能にするという結果を生みました。

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