●世界中の哲学に影響を与え続けるプラトンの哲学
東京大学で哲学を教えています納富信留と申します。今日は「プラトンの哲学を読む」ということでお話しします。
最初にプラトンの対話篇について、概説的なことからお話ししましょう。古代ギリシャの哲学者プラトンは紀元前5世紀から4世紀、もう少し詳しくいうと紀元前427年から紀元前347年にかけて生きた、今から2400年ほど前の哲学者です。今シリーズでは、その哲学者が書いた作品についてまとめてお話しします。
古代ギリシャの哲学者と申しますと、遠い昔で日本とはかなりかけ離れた異人だとお思いになると思いますが、今でも世界中に非常に大きな影響を与え続けています。歴史的に見れば、西洋の哲学や自然科学、その後、東洋、最終的には日本にも大きな影響を与え、今日でも最も重要な意義を持っている哲学者です。
日本の場合、プラトンは19世紀の後半から西洋哲学の導入とともに紹介され、各種翻訳が何度も行われた、最もポピュラーな哲学者の一人です。イギリスの哲学者で20世紀に活躍したアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドという人がいますが、彼の著書に「ヨーロッパの哲学伝統の最も安全な一般的性格づけは、それがプラトンについての一連の脚注からなっているということである」という有名な言葉があります。脚注というのはフットノートのことですが、つまりプラトンの哲学の注釈に過ぎないということです。多少大げさかもしれませんが、ホワイトヘッドという20世紀を代表する哲学者から見て、西洋哲学の伝統はプラトンという哲学者の影響下で発展してきたものであり、今日もそこからなかなか抜け出ることができない、ということを言い表した言葉だと解釈されています。
実際、西洋哲学は、ほとんどの潮流がプラトンの問題設定から始まり、その中で展開されてきた、ないしはプラトンの考え方に対して非常に強い反発、あるいはそれに対する否定という形で行われてきたものです。今日でも西洋哲学、あるいは西洋の近代科学を理解する上で、プラトンの思想を知っておかないとなかなか根本のところは理解できないといわれるほど、貴重かつ重要な存在なのです。
●プラトンは若い頃に戦争とソクラテスの刑死を経験
ではまずプラトンという人について、説明します。プラトンは先ほど申したように、紀元前5世紀の終わりから4世紀の半ばまで生きました。その時代のギリシャは、たくさんのポリス(都市国家)が並立している状態でしたが、プラトンが生まれたのはアテナイ(現在のアテネ)という最も大きなポリスでした。そのポリスがあったのは、ご存じのように世界史の中で民主制がほぼ確立した時代で、プラトンも、ペリクレス(古代アテナイの政治家)の時代の後、つまり民主制がほぼ完成された時代に生を受け、その後、民主制の中で生涯を閉じたということになります。
ただし、プラトンが生まれた時はちょうどペロポネソス戦争の最中で、アテナイはスパルタの陣営との間で長い間戦争の状態にありました。その混乱の中で最終的にはアテナイが敗北して新しい体制に移るという困難な時期を、プラトンは若い頃に経験したということになります。後で触れますが、その流れの中で、ソクラテスの裁判と刑死(処刑)もプラトンが20代の頃に起こった事件ということになります。
●プラトンは対話篇という形式で哲学を論じた
プラトンは生涯に多くの対話篇を書きました。今日の主題はその対話篇というものですが、それは私たちが通常、想像するような哲学の論文とはかなり違ったものです。
私たちは通常、哲学というと、ルネ・デカルトやイマヌエル・カント、エドムント・フッサールのように論述形式、つまり論証したり、章立てできちんと議論すると考えがちですが、プラトンが書いた作品は基本的に全て戯曲形式の対話篇でできています。それがなぜなのかを考えていきたいと思います。
プラトンの書いた作品は大小取り混ぜて30数個ありましたが、それは全て今日まで残っています。おそらく彼のお弟子さんたちや、古代の図書館においてプラトンの本が一冊一冊書写されたのでしょう。つまり、手で写されてきたわけです。それが中世を経て、近代になると印刷本として写されました。見本としてちょうど私には何冊か手持ちの本があります。この本(映像に映っている)は比較的早くて2番目になるのですが、1534年に出版された、プラトンのギリシャ語の全集で、バーゼル(スイスの都市)で出たものです。基本的にプラトンのギリシャ語版は16世紀の初めから印刷されてきましたが、近代ではこのように活字の形式で、プラトンの本が一般の人にも読まれるようになりました。
一人の作家が生涯において書いた作品はバラバラでしかも多数あると思いますが、プラトンの場合は、紀元後1世...